終戦記念日に思う
今年も71回目の終戦記念日を迎えた。「全国戦没者追悼式」では、安倍首相が挨拶で、二度と戦争をしないという非戦の誓いのの言葉を述べていた。
全国で、もう一度戦争をしたいという考えの持ち主は皆無であることは、誰もが知る事実であるが、「戦争法案反対」の看板が、いたるところに見られる。
戦争をするための法などあるはずもなく、ただ、戦争をせずに日本を守るにはどうしたらよいか、そのための法案のはずである。
国と国の争いは話し合いで解決すべきであることは、言を俟たないが、そもそも、戦争というものは、話し合いで解決できない最後の手段であることも、また厳然たる事実である。その戦争も一般民衆まで巻き込まれないように、国際法で、軍隊は、国籍を明確にするよう軍旗を掲げ、兵卒は軍服を着用して、明確に一般民衆と区別するよう定められている。
このように国際法を遵守して行う戦争は、平和を守る最後の手段として、許されるはずである。ところが、あらゆる戦争を放棄せよというのは、戦争が軍隊同士の対決ではなく、一般民衆まで及んでしまうためである。
ナポレオンの時代までは、軍隊同士の戦争であったものが、ドイツがポーランド侵攻したのが、街を破壊して、一般民衆を殺戮するのが、始めだったのではないだろうか。それを戦争犯罪として、ニュルンベルグ裁判で裁いたところまでは、まだ人類の良識は機能していたが、太平洋戦争後の東京裁判で、アメリカの東京大空襲や、広島、長崎への原爆使用を、戦争犯罪として裁かれなかったことが、人類に通常の戦争という概念を喪失させることになった。
それ以来、戦争は何でもありの状況になってしまった。原爆でさえ戦争犯罪ではなくなってしまったのだ。
それからは、相手に戦争をしようという気持ちを持たせないための、軍拡競争の時代になった。そのため、現在、世界には16000発ほどの核兵器が存在し、もし、戦争になれば、地球全体を何十個も破滅させる量である。
こんな状況のなかでも、核開発に躍起となっている国がある。北朝鮮、イラン、パキスタン、インドなどがなぜ、核開発にこだわるかといえば、自国を守るためには、必須だと考えるからである。北朝鮮などは、自国民を飢えさせてでも核開発にこだわっている。
これら核開発も自国を守るためのものであるうちは、これまでの世界平和の延長上にあるだろうが、これまでの人類の価値観を全く否定する国や、組織が出現したら、ただでは済まない。北朝鮮、IS(イスラム国)のこれまでの行状を見る限り、話し合いや人類共通の価値観が通用するような相手ではない。ということは、彼らが核兵器を手にいれたら、いとも簡単に使用するおそれがあるということである。
そんな時代に戦争を回避するにはどうしたらよいのだろうか。
日本の主張は、世界のもめ事は、法に従って解決すべきとしているが、国際司法裁判所の裁定が下っても無視することがまかりと通ったり、国連安全保障会議が、五大国の拒否権で機能喪失であったりで、法の支配は国際的には、通用していない。
最後に残された手段は、世界の価値観を共有する国々と連携を強化して、自国の安全を確保するしか道はないのではないだろうか。
連携を強化するとは、日本は日本の役割をしっかり担うことを求められるのは当然であろう。
戦後の日米関係は、日本が二度と、軍事的な力をもって、他国に脅威を与えないことを目的に、日本憲法は作られたが、日本の安全保障にそれが最善ならば、そうすべきであるが、それは、朝鮮戦争の時代に速くも否定され、現在の自衛隊に至る。それでも憲法はそのままというのは、憲法学者の違憲判定を待つまでもなく、憲法違反は当然であろう。しかし、自衛のための軍隊は否定しないということで、ここまできているが、こじつけもいいところだ。
こんな状態で憲法9条を守れというのは、あまりにも実態とかけはなれている。なぜ、自衛隊を廃止しろと言わないのだろうか。
自衛のための軍隊を許容するならば、9条は改正すべきだし、連盟国と共に自国の平和を守るためならば、当然集団的自衛権も必要であろう
このように、憲法が実態とかけはなれている状態で、憲法を尊重しようという国民感情が生まれるはずはない。