バリアフリーかバリアありか
今年私は72歳を迎えた。70歳を迎えたとき、好きなゴルフが、スコアが悪くなるというレベルではなく、ほとんどショットができなくなるという経験をし、寄る年波とはいえ、止めるかどうかの選択をせまられた。聞くところによると、70歳でゴルフをやめる人が大変多いという。過去の実績を考えると、初心者ゴルフ以下になってしまった自分を受け入れることができないのだと思う。しかし、考えてみれば、遊びでやっているゴルフが、スコアがどうかというのは、あまり関係ないはずである。そう割り切ってしまえばそれはそれでまた楽しいゴルフ生活があり、現在楽しんでいる。むしろ、やめなくてよかったとさえ思っている。
ところが、72歳を迎えた今年、ゴルフのスコアどころか、日常の生活に極めて肉体的に負担を感じるようになった。たとえば、朝、洗面台で顔を洗うとき、中腰を維持するのは、どうにも耐えられない。いっそのことイスを持ってきて洗面時に使用しようかと、ふと思う。
また、炊事にあたり、中腰で台所で作業中もどうにも腰が上体を支えられない。
さらに、自給自足農園で、鍬を持って、畝作りも、中腰で1〜2mしか連続作業ができない。
このように、あらゆる日常作業が、ままならなくなってきた。
これが、歳をとるということなんだと思い知らされた。
この状態が進展し、いずれ自分の日常生活が自分で処理できなくなったとき、介護を必要とするようになるのだろう。
実は、私の長兄は昨年5月、介護老人ホームに入所したが、今年の7月そこで死亡した。
一昨年までは、一緒に山菜とりなどにいっていたのだが、喜寿を迎えたころから、その気力も体力もなくなり、家族と同居を始めたものの、夜間、何度もトイレに起きることから、家族も負担となり、介護老人ホームに入所となった。そこでは、一切のわがままは許されず、しまいには、車いすをヒモで固定されてしまった。それに反発すると、凶暴性があるとされ、精神病棟にうつされ、強い薬を処方され、ほとんど、人間の反応を示さないまでになってしまい、今年7月22日に死亡したとの連絡が家族のもとに届けられた。79歳であった。
あまりにあっけない死亡であったが、介護老人ホームというものがどういうところかということが、実感として理解できた。そのホームのホームパージをみると、春には花見、夏には盆踊り、秋にはピクニックなど行事を楽しんでいるとのこと。
自分のことを自分で処理できなくなったときは、この現実を受け入れなければならない時代のようだ。
人間は生きている限りは、自分のこと(排泄、食事、入浴)で処理したいものである。そうでなくなったとき、長兄と同じ道を余儀なくされる。
そのためには、どうしたらよいのだろうか。
介護とはどうあるべきかを考えていたとき、今年の、芥川賞受賞作「スクラップアンドビルド」にであった。日頃から「死にたい、死にたい」と口癖のようにいう祖父に対し、それをかなえるためには、すべての「面倒を介護によってやることにより、生きる気力を奪い一番短命に終わることができるということを実行しようとする物語である。
もし、健康で長生きを目的とするならば、最近は、バリアフリーではなくバリアありを検討している施設もあるという。
たしかに、健康維持のためには、ウオーキングとか、週に何回かの汗をかくほどの運動を推奨されているものの、問題は、それらのことができないか、やる気力がなくなった人の健康をどう維持するかが問題であろう。
それを解決するためには、日常生活での、ある程度のバリアをくりかえすことではないだろうか。朝、洗面の際の中腰のつらさ、炊事の際の中腰、ビールケースの持ち運び、農作業での中腰での畝作り、つらいけれどこれを日常繰り返すことによって、自活に必要な筋力も維持できるのではないだろうか。
どれも、そんなつらい作業は避けることは可能だ。畝作りだって、つらいならやめてしまえばよいだけだ。別に野菜を自給する必要性なんて何もない。
そんな折、自治会で考えさせられる問題が持ち上がった。ゴミ置き場の段差が30cmほどあり、高齢者は足を高く上げることが大変であるので、段差を半分程度に解消する工事をしようとすることである。
ところが、すでに実施した私の班のゴミ置き場は、段差解消した部分を利用する者は一人もおらず、全員従来どおりの置き場を利用している。この事実を確認したので、必ずしも段差解消は必要ないのではないか、と提案したが、将来の高齢化を考慮すれば、絶対必要で、現在でも少しでも段差が小さくなれば、皆が助かるはずだという。
安全性に問題があるならばともかく、段差は少しでも少ない方が助かるという論議で、回収工事までやる必要があるかどうか、ゴミ出しのとき、「よいしょ」とたまには足を上げることも健康上有益ではないかとも、意見具申したが、段差解消を心待ちにしている人もいるはずだとして、却下された。
しかし、実際問題、誰も利用しない段差解消工事をすることには、異論があったため、最後は多数決での決済を提案したが、「これは多数決で決めるような問題ではない」として却下された。全く理不尽な反対意見は説明すれば済む問題で、対案とはなり得ないとの判断であったことであろう。
わたしとすれば、バリアを少しでも少なくして利便性を高めるのか、それとも、少々のバリアが現状であるならば、それを日常経験するか、または、人によっては、ゴミ出しの際に、上ったり降りたりを繰り返し(実際にあった事例)、日頃の運動不足を解消することによって、健康維持をはかるのも有益と考えたので、そのことを説明すれば大方の賛同は得られると思ったのだが、結果は真逆で、単なる理不尽な反論と判定された瞬間であった。
そもそもバリアフリーとは、身体にハンデを有する者が、日常の当たり前の動作ができないか、できたとしても危険が伴うことを解消することであって、段差が少しでもない方がより楽に動作できるというのはバリアフリーの拡大解釈というか、別次元の話のはずだが。