終戦記念日に思う
今年も8月15日終戦記念日がやってきた。毎年この時期になると、あの戦争は本当に避けられなかったのかという思いである。
ターニングポイントは数々あろうが、ロシアの脅威に対抗しての朝鮮併合まではまだしも、満州国立国が完全に一線を越えたのではなかろうか。
当時の東南アジアは欧米列強の植民地支配が一般的であったが、満州では支配ではなく、内地と同じ条件での発展を目指していた。朝鮮ではかなり成功していたので、それを満州にまで拡大しようとしたのだ。日本国土が広がったというとらえ方だったのだろう。それを「五族協和」という理想を掲げて実現しようとしたのだ。
それは結局欧米列強の干渉を招き、のっぴきならないところへ押し込まれたというのが、最大の原因であろう。
その干渉に対抗して南進政策を強行したことが直接原因となって、アメリカとの戦争に突入するのだが、その南進政策には、満州国成立に直接関わった石原完爾は、強行に反対していたのであった。そのため、東条英機と対立して、退役を強いられた。それにより、戦後、東京裁判で、本人が、自分を何故A級戦犯としないのか、の証言にも関わらず、訴追を免れている。
あのときもし石原完爾の主張のとおり南進を取りやめていたら、という疑問もわくが、もちろん歴史に「もし」は無意味であることは承知している。しかし、歴史から学ぶことは極めて重要なことである。
アメリカとの戦争を、なぜあんなに無謀な戦争に突入したのだろうかとの疑問が世に満ちあふれている。それは先勝国のアメリカによる刷り込み効果もあるだろうが、どう考えても勝てる見込みのある戦争ではなかったことは、開戦前から承知の上だったようである。それがどうして阻止できなかったのだろうか。
それは日本人の精神性ではないだろうか。アメリカからの日本人移民への仕打ちとか対日石油禁輸措置とか度重なる仕打ちに、鬱積していた感情は、開戦を機に「空が晴れ渡る」感じだったと、記されている。いわゆる「窮鼠猫を噛む」というやつである。
バカな軍部が独走して愚かな戦争を招き、凄惨な結果を招いた、ということになっているが、多くの国民が開戦を、空が晴れ渡る快挙と受け止めていたこともたしかなのである。
ところが、東京大空襲や広島、長崎への原爆などを経験し、そのあまりの悲惨さに、戦争を憎み、戦争を起こした人や、ものを許さないという風潮が生まれた。それこそ戦勝国の東京裁判の目的であったのであろうが、本来戦争は犯罪ではない。戦争は犯罪ではなくても、非戦闘員の殺害は国際法違反である。戦闘員であることを明確にするよう、戦旗や服装で明らかに表示することが国際法で定められている。そうしなければ、あやまって非戦闘員を殺害するおそれがあるからである。
それを軍需工場でもなく一般市街を絨毯爆撃や、原爆による壊滅はどう考えても犯罪である。
ところが、東京裁判では、そもそも一般市街の絨毯爆撃や原爆を使わせるような悲惨な戦争を起こしたのは誰だという裁判になってしまった。そして、事後法で平和を乱したという罪を作りだし、A級戦犯として裁くことになった。そして、一般市民数十万人虐殺は罪ではなく、戦争を終わらせるための必要な方策だったとされてしまった。
うがった見方をすれば、もし東京大空襲と原爆がなかったら、東京裁判も意味を失うのではないだろうか。そして、南京虐殺の虚構も作り出す必要もなかったかもしれない。
どうしても東京大空襲と原爆の正当性が必要だったのであろう。
その証拠に、広島原爆記念碑には、「安らかにお眠り下さい、過ちは繰り返しませんから」とある。だれが過ちを犯したと言いたいのであろうか。
ことほどさように、戦争を起こすことは絶対に許さないという風潮は、決まってこの爆撃の悲惨さが引き合いに出される。しまいには、戦争でひどい仕打ちを受けるのは私たち一般市民で、戦争を決断する人たちではないとまでいう。
憲法9条では、国際紛争を解決する手段としての武力を否定しているものの、自衛の手段としての武力までは否定していないというのがこれまでの憲法解釈であった。この度の解釈変更で集団的自衛権も容認する閣議決定を行ったが、これを戦争ができる国になったのではないかという指摘が多いが、そもそも自衛権に個別も集団も区別することが無意味である。現代において一国平和主義は成立しない。国際協調で生き残るしかない。戦争をしない平和を守るために集団的自衛権が必要だと、安倍首相がどんなに説明しても、アメリカの戦争に巻き込まれるといって、あの戦争の悲惨さを引き合いに、反対する。その心情は、兵役逃れのために醤油をがぶ飲みして徴兵検査不合格になろうという神経に似ている。ただただ悲惨な戦争はいやだと言っているだけである。悲惨な戦争を起こさないことは当たり前なことで、そのために集団的自衛権の行使容認が必要だという、安倍首相の説明も、戦争こりごりの人達には届かない。同盟関係を結ぶ以上、集団的自衛権は当然なことで、それなくして、いざというときに相手からの力添えを期待することはできない。
あの戦争が悲惨だったから、どんな武力も否定するというのは少々子供じみている。
それでは、あの戦争で、国を守るために命を捧げた英霊にも失礼だし、現在自衛隊で国防のために日々研鑽を積んでいる自衛隊にも失礼である。
この事は、原発で深刻な事故が起きたから、すべての原発を廃止すべきという論調と良く似ている。過去の経験を未来に活かそうとするのではなく、ただコリゴリだけでは、明るい未来を創出することはできない。