集団的自衛権
集団的自衛権を巡る論議がいよいよ激しくなってきた。政府与党自民党と公明党の間の論議が当面の焦点となろう。自民党は集団的自衛権を行使できる事例をあげて公明党を説得しようとしているが、公明党は、いずれも警察権か個別的自衛権の範囲内で対処可能としている。それならば事例に挙げられていない「グレーゾーン」はどうするかと、もっぱら集団的自衛権そのものにこだわっている。
公明党の主張することの方が筋が通っているように思う。
そもそも自国の安全に脅威を及ぼす恐れがある場合には、個別的自衛権で対処可能であり、自国に脅威の恐れがない場合に、同盟国が攻撃されたからといって、自衛隊が出動する必要があるだろうか。たとえばイラク戦争のように、アメリカの対イラク戦争を支持はしても、集団的自衛権は行使できないと言う理由で、単にお金を拠出しただけにとどまった経緯がある。
しかし、本当は当時のイラクが日本国に対して脅威を及ぼすという認識があまりなかったからであり、憲法で集団的自衛権の行使が禁じられているからではなかったのではないだろうか。
もし仮にイラクが日本を攻撃してきた場合には、当然自衛権を行使したであろうし、その際同盟国アメリカを攻撃するイラクに対しても当然自衛隊は出動したであろう。それは個別的自衛権である。
したがってもし当時イラクの大量破壊兵器の存在が日本にとって深刻な脅威であったなら、自衛上の戦争が許されるか否かが問題なのだ。なぜならば、憲法9条で紛争を解決する手段としての戦力の保持を否定しているからである。
憲法解釈で集団的自衛権を容認しようということは、まさか自国への脅威が全くない場合にも同盟国が攻撃された場合に、自衛隊が出動することを可能とするのであろうか。
たとえばよく集団的自衛権を要求される事例として、北朝鮮がアメリカ本土向けミサイルを発射した場合に、日本がそれを迎撃できるかという問題である。それは、日本が行うのではなく、アメリカが行うことである。そのための米軍基地ではないのか。
また、日本人を多く輸送するアメリカの艦船が攻撃を受けた場合の反撃も、日本人を守るという個別的自衛権であり、自国の利害に無関係な場合の集団的自衛権とは異なる。これは公明党の主張そのものである。
自国の利害に無関係な場合に同盟国から要請があれば武力行使を容認するかどうかが、集団的自衛権行使の要である。たとえば、政府が例示しているように、他国のPKOが武力攻撃を受けた際、その国の政府から出動要請があったとき、駆けつけ警備として自衛隊が出動できるかである。日本にとっては何の利害もないが、国際平和維持活動に貢献するという、安倍首相の主張する積極的平和のためには大義はあっても、自国の利害に無関係である。このようなばあいにも自衛隊が出動できるようにするのが、この度の憲法解釈変更による集団的自衛権の容認の目的であろう
憲法9条では紛争解決のための武力は否定されているため、紛争ではなく、PKOなど国際平和維持活動は、自国の平和維持に不可欠であり、その活動団体が武力攻撃を受けたということは、自国の重大な脅威と受け止めて、自衛権を発動しようということであろうが、その場合も個別的自衛権で対処可能であろう。
しかし一方それではあまりの拡大解釈であろうというのが、憲法改正論者の主張であろう。
しかし、振り返ってみれば、自衛隊は軍隊ではないとして、憲法解釈の変更で自衛のための組織だとして既成事実化してきた経緯がある。その論法からすれば、いまや、一国平和主義は通用せず、国際平和維持こそ自国の平和につながるもので、これを脅かす武力攻撃に対抗することは、自衛権の行使であり、それを国連憲章51条で集団的自衛権(right of collective self-guard)と呼ぶなら、当然それを行使できるようにしたい、ということであろう。
現在の混乱は、憲法前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してーーー」とあり、9条で「武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。
従って自衛隊も、最初は「警察予備隊」、そして「保安隊」、「自衛隊」と呼び名を変えてきた。その延長でいうなら、憲法解釈の変更ではなく、「国防軍」と呼び名を変えるべきであろう。自衛のための軍隊は違憲ではないというのは、「砂川事件」で十分論議が尽くされている。その延長であれば、当然「国防軍」まで行き着いても何の矛盾もない。
でもこの際、憲法改正というならそれも十分説得力がある。