原発安全神話の罪

 

 福島原発事故の原因は政府と電力会社が一体となって作り上げてきた安全神話のため、必要な対策が先送りにされてきた矢先の事故であったことが、明らかになってきている。その裏には絶対安全神話がなければ、原発の存続が難しかったという事情がある。

 その事情を、昨年1127日のテレビ番組「NHKスペシャル」で元東電副社長が、当時津波の恐れに対して何らかの対策を行うことは、地元に、そんなに危険なのかという疑念を与えることになり、即運転停止を余儀なくされることから、先送りせざるを得なかったと述懐している。そう、絶対安全という神話を否定することになるからである。

 国民は絶対安全という神話が存在しない限り、原発は受け入れないという世論が支配していたのだ。その神話を維持するためには、念には念を入れるという思想をも排除してしまったのだ。そしてその思想は、大飯原発再稼働の論議でも問題になっている。すなわち、福島クラスの大津波に襲われても炉心損傷事故は起こらないと想定していても、万一の事故に備えて重要免震棟の設置を予定しているが、それが完成しないうちに再稼働するのはおかしいという意見である。こういう反対意見が誰にもわかりやすいため、このような意見が出ないように絶対安全神話が必要になるのであろう。

 これについて、柳田邦夫氏が「文藝春秋」5月号で、「原発事故 失敗の本質 圧殺された警告」の中で述べている。内閣府に置かれた中央防災会議から文部科学省の地震調査研究推進本部に、貞観地震津波があり得るという表現を削除するように圧力があったと。

 また当時原子力保安院の院長が貞観地震による津波を想定することは「寝た子を起こす」という表現で抹殺したとの報道も目にしたことがある。

 これらはいずれも絶対安全神話を危うくすることから、日の目をみることはなかった。

 中央防災会議にしてみれば、貞観地震と津波を想定すると、現在のすべての施設が危険となることから、到底対応しきれないという理由でいわゆる「寝た子を起こすな」ということになってしまったのであろう。その結果、1000年に1回といわれる津波によってこのような悲惨な結果を招いてしまった。せめて、念には念を入れるという対策がとられていたら防げたはずが、絶対安全に疑念を抱かれるという理由で、対策はとられなかった。

 しかし、福島原発の56号機は最悪の事態を免れた。何故免れたかを検証しただけでも、今後のシビア事故防止に大いに参考になるはずなのに、ほとんど議論されないことが不思議でならない。56号機の非常用ジーゼル発電機3台の内1台が空冷式であったため、冷却水ポンプを屋外に設置されておらず、難を逃れたのであった。たった、これしきのことでも最悪の事故は起こさなかった。せめて、1〜4号機にも一部でも空冷式を採用してあったなら、少なくとも炉心損傷は防げたことを思うと残念でしかたない。しかし、すべての号機に一部空冷式に変更することは、安全神話に疑念を持たれることをおそれた関係者によって、否定されてしまった。

 この事実は原子力関係者の多分ほとんど全員承知していると思われる。しかし、ほとんど表に出ないのは、国も電力会社も学識者もすべてなれ合いで、何を言っても事故を起こしておきながらということで、信用されないためと思われる。

 ストレステストの結果を待つまでもなく、シビア事故防止対策はごく簡単なことで実現可能であるにもかかわらず、残念ながら信頼を失ってしまっているため、専門家の意見は世に出ることなく、評論家や住民の素朴な不安だけが、メディアに取り上げられ、政府もその対策だけに振り回されている。

 原子力規制庁が良い例である。環境省に「原子力規制庁」を設置するという案である。

 経産省は原子力当事者だから、第三者に規制庁をと言うことだろうが、原子力専門家を排除して、果たして有効な規制が可能だろうか。環境省というのも笑ってしまうくらいおかしなことだ。これも世論対策として仕方ないのだろう。

 事故を反省して今後の施策に生かしていくためには何をなすべきかということが、評論家(ほとんどがコメンテータ)や庶民の不安だけに対していたのでは、100年の大計を危うくする。最近のマスコミ報道のほとんどは、この種のものが占めている。それ以外のもので目にしたのは、仙石氏の「ある意味で集団自殺」発言ぐらいであろうか。

 何度も言うようだが、専門家が念には念を入れる対策を取ることを躊躇するのは、安全神話に疑念を持たれるからだが、かといって、1000年に一度は明日起きるかもしれないと言えば、そんな危険があるならば、即停止をと言うことになることも十分うなずける。問題は念には念を入れる対策に対して、地元が危険視して拒否する体質があることである。重要免震棟の設置案を提示すると、炉心損傷を想定しているから、そんな危険な原発再開は受け入れられないということになってしまう。

 社民党党首福島瑞穂氏は福島原発事故後、国会質問で、絶対安全と言われていた原発がそうでないことが判明したのだから、即全原発を停止してください、と首相に迫ったのを覚えている。最もわかりやすい意見だが、あれほどの事故を経験しながら、何も反省せず、その結果を何も後世に生かせないことが、本当に正義だろうか。それは安全神話のみを頼りにしている、古代思想ではないだろうか。原子力と神話とはあいいれないものであるはずが、地元住民に対してだけは神話を押しつけてきたことの矛盾が、吹き出したといってもよい。

 では何故、原発推進には安全神話が必要であったのであろうか。

 私は、平成5年頃だったと思うが、東電の株主総会に出席したことがある。その折に、ある女性株主から、「あんな危険な原発を推進している幹部の皆さんは、立場上仕方なくやっているのでしょうが、子孫のことを考慮したら、直ちに停止してください」と涙声で訴えていたのを記憶している。それに対し、会場から「泣くな」のヤジがとび、笑いのうずにつつまれて済んでしまった。わたしもその笑った一人である。

 この事例でも明らかなように、推進派と反対は理屈を超えたイデオロギーの対立の様相を呈していた。この対立を乗り越えるには、理屈の説明よりは神話の力が必要であったのではあるまいかと推定する。そしてその神話を守るには、真っ先に、念には念を入れる対策は、疑念を持たれる恐れがあるとして、否定されていった。(昨年1127NHKテレビにおける東電榎本元副社長談)

 従って、このたびの福島原発事故原因は、この念には念を入れるという対策を怠った上記判断にあり、その責任は追及されるべきであることは当然であるが、その判断の誤りの根拠は、地元住民の過剰な反応だったと言えなくもない。

 過去に、検査データの改ざんや、トラブル隠蔽などの不祥事があったが、いずれも事象の内容に比べあまりに大きな反響、ともすれば即運転停止を余儀なくされることを、回避するために、取った行動が原因であった。そのような体質が、念のための対策を躊躇させてしまったのだろう。

 専門家の判断が地元住民感情に配慮した結果、躊躇してしまい、それが原因で今回の事故を引き起こしてしまったとは、なんともやりきれないが、それをテレビインタビューでしゃあしゃあと述べている無神経さにも驚く。世が世ならば切腹ものである。

 また、今回の事故は想定外の津波が原因というと、想定外なんてとんでもないという声に打ち消されてしまうが、このような風潮こそ、貞観地震津波を否定する圧力を作り出し、結果的に新たな想定外を生み出してはいないだろうか。

 そろそろ、原子力は神話の世界から科学の世界へ戻すことを、今回の事故から学ぶべきではなかろうか。それは専門家の役割なのだが、信頼を失っているのではどうしようもない。少なくともそれをどうするかを決めるのが、政治であるはずなのだが。

                     以上