どうする福島原発補償
昨日5月16日の国会で東電の清水社長は、原発補償について政府の支援を要請した。しかし、枝野官房長官はまず東電のリストラの内容を明確にすべきであり、その後でなければ検討もできないとしている。果たしてそうであろうか。
枝野官房長官は、今回の災害をJALのケースと同じずさんな経営がもたらした結果との認識であるようだ。したがって、口を開けば一義的には東電が負うべきであり、足りない部分については政府も責任をもって対応すると言っている。JALの場合とほとんど同じである。
本来破綻すべきであるが、電気供給という公益的性格を有するため破綻させられないという理由からであろう。その点でJALとは異なる。JALの場合はなくなってもかまわないが、もし存続するのだったらこうすべきだということだった。
また、JALの場合は、悪天候などの自然災害で飛行機墜落事故(想定を超えた悪天応)を起こし、その補償のための経営危機というものでもない。
JALの場合、何年もの間経営危機を言われながら、改善することもなくずさん経営を続けた結果の破綻と何故同列に論じるのであろうか。
しかし、原発事故で避難を余儀なくされた人々にとっては、はらわたが煮えくりかえるほどの怒りの対象になっているらしい。被災者の避難所で謝罪する清水社長に対し、「土下座しろ清水」と怒鳴る姿がテレビで報じられていた。このような被災者の感情は多くの国民も共有しているから、あのような姿が報じられるのであろう。またそのような国民感情に配慮するのも政権の使命なのであろう。役員賞与をカットするなどは最も効果的であるはずだ。それなのに東電は役員賞与50パーセントカットを打ち出して逆効果を招いてしまった。カットされても残額が3600万円もあると報じられて、逆に国民感情を逆撫でしてしまったのだ。
やはり補償というものは、被災者に確実に支払われることを最大の目的にすべきであり、国民感情に配慮するあまり、法や正義に反したり、仮にも電気の安定供給を危うくしたり、経済への悪影響することがあってはならない。それこそ大人の判断であり、JALとは違う点である。
たしかにいくら想定外とはいえ、メルトダウンを起こした責任は重大であり、これは全社さらには国も責任をとらなければならない。
本来公益事業である電力供給が民間会社にゆだねられているため、原子力安全も厳しく国の審査を受けている。すると、民間会社は、国の審査を通る範囲内で極力コストダウンをはかろうとすることになる。最大津波の想定も過去判明している最大津波(5.7m)に十分な余裕(5m)をもって設計した。その結果が今回の災害につながるのだ。そのとき国もその余裕では足りないと何人も言えない。それを一般国民から見ると国と電力会社のなれ合いがあり、適正な審査がなされなかったと断定する。
だからといって、この際東電国有化するとか、発送電会社分離などの見直し論議が高まっている。これらを論議することは有意義であるが、見直しに当たっては、どうか将来を見越して電力の安定供給や日本経済発展に配慮をベースにすべきであり、単に東電を罰することを目的にはすべきではない。それこそ、適切な補償もままならなくなる。電気事業の安定と経済発展なしには補償もできないからである。
政府補償の前提として、東電のリストラが求められているが、役員賞与や社員給与がまずやり玉に挙がっているが、東電の人件費は全費用の8パーセントしかない。仮に全役員全社員の給料を0にしても、8パーセントしか捻出できない。それに対し、燃料費は60パーセントにも及び、福島原発の停止分を火力で補うだけで、16パーセントもの費用増になる。これが16パーセント電気料アップの根拠なのであるが、補償費捻出のための電気料金値上げなどもってのほか、という世論に打ち消されそうである。
確実に補償が実行されるために、是非大人の判断をしてほしい。しかし、その裏には国民の理解が得られるかという難題が残る。国民感情に配慮を優先して元も子もなくすことだけは避けてほしい。
どうも菅政権ではそれを期待するのは無理かも知れないという懸念が残る。
あの浜岡原発停止などは、まさに国民感情のみに配慮したものだからである。電力の安定供給も犠牲にし、経済にも悪影響しか残さない。
国策として推進してきた原子力政策の見直すべきだとの論調が高まっているが、原子力を減らして自然エネルギーを増やすべきだというのは一面で正しくない。自然エネルギーを増やすべきだというのは、今に始まったことではない。永遠の真理なのだ。それを一部メディアでは自然エネルギーを増やせば原子力を減らせるという論調は誤っている。減らせるのは原子力ではなく化石燃料なのだ。
人類は、先ず化石燃料による発電を減らすことを目指すべきなのは、これも永遠の真理なのだ。そのためには原子力は欠かせない。火力発電が0になって初めて原子力を減らす努力が始まるのだ。それまでは原子力開発を国を挙げて推進すべきなのだ。特にこのたびの事故を経験した日本こそ今後の世界の原子力技術を牽引する役目を果たすべきなのだ。
それでなくても中国では今後十年間に100基を超える原発を建設しようとしている。日本の技術をそれにも貢献してゆかなければ、それこそ世界的災害の恐れがでてくる。
技術というものは継続発展しなければ維持も向上もできないことを知るべきだ。
人類は原子力を避けては通れない以上、克服するしかない。人間が火を手にしたときと同じように。