終戦記念日に思う
今日は65回目の終戦記念日だ。毎年この時期に思うことは、なぜあんな無謀な戦争に突入したのかということだ。前にも書いたが、あの時期、戦争に突入するのは、国民のほとんどが望んでいたことで、それを煽ったのが、新聞やラジオといったマスコミであった。一般大衆は無知でいつもマスコミの喧伝に乗せられるのは、今も昔も変わりがない。しかし、当時かなりの知識層といわれる人々も、おおかた、開戦の報を聞いて、胸が透くような感じを持ったようである。それほど鬱屈感が国を覆っていたということであろう。
開戦前に、シミュレーションも行われはした。そこでは、2年間は持ちこたえられるという内容であったようだ。しかし、日露戦争勝利のトラウマがあり、勝敗は物量や国力によるものではなく、勝とうという精神力こそが重要という東条首相の考え、いや陸軍の考えといった方がいいかもしれないが、それが支配的であった。
そこへ持ってきて、日本は神の国という思想が、東京大学から発せられていた。当時、平泉 澄という論客が東京大学経済学部で、日本は神の国であり、古代から神に守られているという論文や講演をおおいに発していたという。その内容は立花 隆の「私の東大論」にくわしいのでここでは省略する。東条首相もその講演を聴き、いたく感動したそうである。その結果があの有名な戦陣訓であろう。国民の命が国家のもの、天皇のもの、神のものになった瞬間である。
あの戦陣訓に対し、そういうものが国家を滅ぼすことになると、痛烈に批判したのは、東条首相とはどうしてもそりが合わなかった石原完爾であった。戦後の東京裁判で証人によばれ、東条首相と意見が対立したことを訊かれると、意見が対立するということは、自分の意見をしっかり持っている者同士の場合であって、意見を持っていない者とは対立しようがないと答えたそうである。相当バカにしていたようである。
また、満州事変を起こした張本人である自分を何故戦犯に問わないのかとか、東京裁判なんて勝者が敗者を裁くなんて何の正当性もないと、批判したそうである。戦争とは何かを本当にわかっている発言である。
もしもであるが、東条首相ではなく、石原首相だったら歴史はどう変わっていたのだろうか。もっとも、その石原完爾も、満州を第二のアメリカ合衆国のようなものに育て上げ、将来はいずれアメリカと最終戦争せざるを得なくなるというのが、信条だったようであるから、結果は同じだったかもしれない。歴史に「もし」はないが、少なくとも悲劇の度合いはかなり違っていたのではないだろうか。
戦争は本来外交の一つの形態であるはずが、戦争の反対語は平和であると信じられるようになったのは、あまりの悲惨さを経験したからではなかろうか。最近は、平和の反対語は戦争ではなく、無関心だという声も聞く。今の日本にはよく当てはまっている。
あんな悲惨な戦争は絶対いやだといいながら、戦争を引き起こさないための行動はもとより、勉強することもしない。ただただ戦争反対と唱えるだけである。時には戦争の道具だとして軍備さえ否定しようとする。となりの国では、日本を仮想敵国として、核兵器まで準備しているというのに。そして、自国の安全を同盟国アメリカに頼りながら、基地は日本には置かせたくないと画策する。いずれも無関心のなせる技である。
一国の首相までがよく勉強してみたら、沖縄の米軍基地は抑止力上必要だとわかったという。ましてや一般大衆ならなおさらである。まさに平和の逆語の状況にあるといえる。
戦前が、欧米諸国が武力を背景に領土を広げていった帝国主義の風潮に、バスに乗り遅れるなと戦争に突っ走った時代なら、戦後は戦争の悲惨さに懲りて、ただひたすら戦争反対の時代であった。戦争反対を唱えれば阻止できるならよいが、そうもゆくまい。
平和、平和と唱えていれば平和になるわけでもない。広島の原爆記念碑には、やすらかにお眠りください、あやまちは繰り返しませんから、と刻まれている。日本が過ちを犯したから原爆を投下されたという反省だ。
過ちを犯したのは原爆を投下したアメリカに決まっている。それを主語を曖昧にすることでごまかしている。当時の国際法で戦争は軍事的設備や軍隊のみが対象と定められていたはずである。それを承知していたアメリカは、東京裁判で日本を裁くには、原爆投下に匹敵あるいはそれ以上の、一般人を対象とした残虐性を示す事件を必要とした。それで目をつけたのが、南京虐殺である。当時南京の人口は広島とほぼ同じ25万人だった。そこから虐殺人数25万人説がでてくることになるのだが、注目すべきは、南京陥落一ヶ月後の人口が30万人にふくれあがっていることである。また、南京陥落は世界的事件であったため、世界中から200人を超す新聞記者が取材中であったが、誰一人虐殺を本国へ打電した記者はいなかった。そして、南京入城に際して、松井石根将軍が発した、後世の人から指弾されるような行動を一切慎むようにとの文書も残っている。
それにもかかわらず、一部の日本兵の行き過ぎた行動から、いくつかの強姦事件や残虐事件もあったかもしれない。しかしそれは通常の犯罪であって、国家が行った原爆投下のような残虐事件とは根本的に異なる。東京裁判の対象となるものではない。
戦争とはそういうものである。だから戦争は絶対避けなければならない。
しかし、その過ちを起こさないどんな努力をしているのだろうか。刃物を振りかざす暴漢に、暴力反対、暴力反対と言い続けることだろうか。
それとも相手のどんな理不尽な要求にも、へりくだって唯々諾々と従うことだろうか。
近年近隣諸国のいやがることはしないということで、閣僚は国のために命を捧げた英霊を祀った靖国神社には参拝しない。そのくせ他の国の戦没者墓地には、参拝する。
単にいやがっただけでこれであるから、強く要求されたり、脅されたりしたら、ひとたまりもない。そのとき国を守るはずの自衛隊も、国のために命を捧げたとしても、よその国に配慮して、参拝もしてもらえないことがわかっていて、誰が本気で戦うだろうか。戦争中、兵士たちは靖国で会おうを合い言葉に、散っていったのである。
A級戦犯が合祀されているからと理屈付けしているが、そんなことは国会で、与党も野党も一致して賛成して決めたことである。それを何を今更である。
ただし、天皇陛下はそれ以来靖国参拝を取りやめている。
もし、小沢元幹事長が当時いたら、内閣の指示通り参拝しなさいというだろうか。
天皇の独白禄が公表されているが、そのなかに、A級戦犯も合祀すると聞いて、「松岡もか」とお聞きになったそうである。松岡とは、あの日ソ中立不可侵条約を締結した張本人の松岡洋右であるが、彼が外務大臣に就任するときに、天皇陛下に組閣の報告にあがった近衛文麿首相に対し、「松岡だけはなんとかならないか」との問いに、「局面打開に最適であり余人をもって代え難し」と答えている。陛下とすれば、親ドイツ反英米の松岡を何とか変えたいと望んだのであろう。以降、日独伊三国同盟も日ソ中立不可侵条約も、何の役にもたたないばかりか、悲劇を増大したに過ぎない。松岡洋右の判断間違いについては、戦後50年のときの「終戦記念日に思う」で書いたのでここでは繰り返さないが、天皇陛下の心情はよく理解できる。
真に戦争を阻止したいなら、その最大限の準備をするのが当然であろうし、また、いざというときには、命を賭して戦うという国でありたいものだ。
現在の日本はそのどちらも全く感じられない。
終わり