憲法改正論議
憲法改正論議が高まっている。GHQにおしつけられた昭和憲法が誕生以来
60年経過し、時代にそぐわなくなってきているという理由からである。特に、9条の戦争放棄と軍事力を持たないとしたところが、現に自衛隊が存在するし、それを軍隊ではないと言うには無理がある上、戦争以外にもカンボジアやイラクへの自衛隊派遣が、その都度特別措置法を作って対応していたのでは、国際貢献も円滑には行われにくい。それは憲法違反だという反論が常に存在するからである。それならば、憲法を改正して自衛隊の役割を明確に盛り込めば良いと言うのが、改正論者の主張である。それに対し、反対論者の主張は、とにかく戦争放棄は世界に例のない平和憲法であり、むしろ世界の範となるべき先進的なものであるから、改正なんてとんでもない。先の戦争の悲惨さを忘れたのかという一言を付け加えることを忘れない。例えGHQに押し付けられた憲法であっても、いいものはいいということであろう。
1月23日のNHKテレビの「シリーズ憲法」という番組でも、詰まるところ上記の論議に尽きるように感じた。その中で元社民党党首土井氏は、自衛隊が憲法上明確に規定されていないから、憲法を改正して明記するというのは、本末転倒であるという。憲法に違反する自衛隊が憲法に規定されていないのは当たり前だという。相変わらずの自衛隊違憲論である。社民党は村山政権の時代に自衛隊合憲を認めたのではなかったのだろうか。
それはさておき、だからこそ憲法で自衛隊を明確に規定する必要があるはずである。
しかし、このような論議が堂々とまかり通るということは、実際に憲法改正(国会で三分の二以上の賛成と国民の過半数の賛成が必要)が不可能かもしれない。戦争賛成か反対かの論議にすり替えられるおそれがあるからである。国家議員は土井氏のような単純思想の議員はは少ないだろうが、一般国民はほとんどが戦争は二度としたくないというところから一歩も進むことができないから、国民投票を実施しても投票率50%と仮定すると100%の賛成が必要になるが、そんなことは不可能だ。
だれだって戦争には反対に決まっている。戦争を回避するためには軍事力を有する必要がああるかもしれないにもかかわらず、軍事力を有していなければ、軍事力で攻撃されることはあり得ないという、楽観的な推測が通用すると確信しているのであろう。西部劇で丸腰の敵を撃つのは卑怯であるということから、丸腰でありさえすれば、攻撃されることはないというに等しい。
しかし、国際紛争を軍事力で解決しようというのは、前時代的ではある。その旨は現憲法の条文は改正の必要がないかもしれない。しかし、相手国が軍事力で脅しをかけてきたきたときはどうするかは、規定しておく必要がある。すなわち、攻撃されたら全面的に相手国の要求をのむか、それとも脅しには屈しませんと突っ張るかしかないが、平和憲法論者は、脅しと言っても、本気であるはずはないから、屈する必要はなく、粘り強く話し合いを継続することが大切だと主張することだろう。
歴史上話し合いで国際紛争が解決された例はあるだろうか。国連安全保証理事会が調整してくれるだろうという期待はある。しかしそれとて、主要国が拒否権を有していることを考慮すれば、いざというときには何の役にも立たない。キューバ危機のときも解決したのは、国連安保ではなくアメリカの軍事力であった。軍事力が戦争を回避して紛争を解決した実例である。
世界各国が軍事力を有している以上は、日本だけ例外でいるわけにはいかない。子供の頃、スイスは永世中立国だと、社会科の授業で教わり、日本も永世中立国になればよいのに、何故ならないのだろと、不思議に思った記憶ががあるが、そのスイスが国民に兵役義務があり、しっかり軍事力を有していることを知らなかった。
日本は日米安全保障条約によって保護され、もっぱら経済活動に努めてきた結果、世界第二位の経済大国にまでなったことから、安保ただ乗り論が出てきた。アメリカも日本をに平和憲法を押し付け、属国扱いしているうちに、本国を脅かすほどの経済大国になってしまったので、なんでそんな国を守ってやらなければならないのか、という疑問が出てきたということは、日本もそろそろ属国ではなくて一人前の国となるべき時期が到来したということであろう。これからは属国として守ってもらうのではなく、同盟によって守り守られる関係にならなければならない。そのためには同盟国たりうる軍事力を有するのは当然の義務であろう。
このような国の成り立ちを規定するのが憲法であるはずなのだが、それを国民的な論議で求めようと言うのは無理があるように思う。戦争は反対という議論にすり替えられてしまうからだ。
元自由党党首小沢一郎氏は自衛隊とは別に国連貢献隊の創設を主張しているが、これを姑息と言わずに何と言おう。国連安全保障理事会の決定のみに基づいて行動する軍隊というが、それでは国連の傭兵のようなもので、独立国として矜持が保てない。
以上見てきたように、日本のような自由で民主的な国においては、国会で三分の二はともかく国民の過半数の賛成というのは、手続き上無理があり、国の成り立ちと言うような本質的な問題は国民投票ではなく、国民の代表である国会の責任において決定すべきであろう。
以上