高齢化社会を生きる
21世紀の日本は世界に例を見ない高齢化社会が到来するようである。平均寿命が延びるということと,少子化が原因であろう。したがって,高齢者が年金をもらってゆったりと余生を送るということが許されなくなってくることだろう。先日のテレビでも,定年延長を企業に求めて行くというような報道があった。
一方,銀行の合併,ゼネコンの破綻,ダイエーやそごうの破綻などで経済は冷え込み,失業率は増加の一途をたどっている。
失業者の増に対するセーフティネットとして,政府は通信教育の一部補助などによって,転職を容易にできるような制度を設けているが,経済全体が冷え込んでいる中,通信教育を受けたくらいで新しい職につけるとも思えない。ましてや,50歳以上の高齢者が通信教育で新しい技能を身につけて,既存の技能者との競争に打ち勝つほどの力をつけることなど,ほとんど不可能といってもよい。
小泉改革においても,不良債権の処理や特殊法人の整理によって,ムリ,ムダ,ムラを省いて,その余力をより高度な部門に振り向けることにより,新規需要を掘り起こし,経済の持続的発展をもたらすこととしているが,いずれも経済の縮小化を目指すものであって,新規需要など生まれようもないし,単に購買力の低下をきたすのみであろう。それでなくても,国民の大多数は欲しいものはほぼ満ち足りており,新規需要の掘り起しには限度がある。
ほしいものを手にいれるために一生懸命働いて貯金して,それを頭金にして,月賦で購入するというパターンが一般的であった。これこそが資本主義の発展に一番機能したパターンであり,最近のようにカネ余り需要不足の時代には不適合である。それほどまで消費が供給力に対して落ち込んでしまったというのが,デフレスパイラルの正体であろう。
そんなデフレスパイラルの時代に,現代の日本は,グローバリズムの競争原理主義により,経済活性化を図ろうとしている。これも単にデフレを加速させるにすぎない。
なぜこんなあやまちを国家規模で侵すのであろうか。それは,アメリカの経済戦略に完全に取り込まれてしまっているからであるまいか。
アメリカは,クリントン政権時代に,日本との経済戦争に打ち勝つために,グローバリズム競争原理主義を持ち込み,超円高,
BIS規制,日本株空売り等の戦略をもって,日本経済を完膚なきまでに打ちのめした。そして,5兆円もの国費を投じて救済した長銀を, 150億円ほどの捨て値でリップルウッド・ホールディングス社に売り渡し, 8000億円もの投資をした宮崎シーガイヤをやはり180億円ほどの捨て値で売り渡した。そして,この日本経済の凋落はとどまることを知らない惨状に,ブッシュ政権が危機感を持った。度を越した日本の経済の凋落は,アメリカ,日本,中国の
3極構造にヒビが入るからである。先のブッシュ大統領の来日にはこのことが色濃く出ていた。日本の不良債権を処理してデフレスパイラル脱出を図るという小泉首相に満面の笑顔で対応し,中国の江沢民主席に対しては,大変渋い顔をしていた。
小泉首相の突然のデフレスパイラル対策の指示も,アメリカのさしがねであったのかもしれない。
にもかかわらずに,今回の総合デフレ対策はほとんど実質効果が期待できないものばかりであった。
なぜだろう。それは,「セイの法則」でも書いたので詳述は避けるが,カネ余りのスタグフレーションに,ムダを省いて効率化をはかることで対処しようとするからである。
これを乗り切るには,ビッグバンに相当する価値観の一大転換が図られなければならない。明治維新の西洋に学ぶ殖産興業,大正から昭和初期の軍事力による海外進出,戦後の大量生産による輸出拡大と,常に目の先に明確な目標があり,子供は「大きくなったら…・」という夢を描くことができた。それが最近は「平凡なサラリーマンでいい」といい,高々野球選手やサッカー選手にあこがれる程度になってしまった。これでは国の経済が立ち行かなくなるのは当然である。そして,残されたパイを得るために,価格破壊といわれるほどの安売り競争に明け暮れている。しかし,パソコンや携帯電話のような安値によって爆発的に需要が広がるならまだしも,ゼネコンのように絶対量が少ないのに,供給力が有り余っているならば,その過剰分はいずれの社かが撤退せざるを得ず,単に自社がその側になりたくないだけのはなしであり,徒な競争は無意味で未来につながらない。銀行のように自ら再編すればよいのだが,それにしても多くの失業者,しかも高齢者が出ることはまちがいない。この高齢者は,老体に鞭打って通信教育を受けて,新職を探すのではなく,日本の新しい文化の創造のために行動を起こすべきではなかろうか。
その行動は,労働して報酬を得るという従来の規範の中ではなく,自分のやりたいことをやる。それが趣味でもスポーツでも社会奉仕でも何であれ,自分がやりたいことをやるのだ。やりたいことというと,従来だと,スキー,ゴルフ,テニス,カラオケ,旅行等だいたい相場がきまっていたが,そういう価値観の行く末が現在だといってよく,必ず行き詰まる。スキー客は平成
4年のピーク時の半分だと,先日報じられていた。ゴルフだって同じだろう。それは娯楽の範疇を出ないからである。しかし,なかにはスキーであれゴルフであれ,生涯現役で楽しんでいる人もいる。そういう人にとっては,スキーやゴルフも娯楽の域を越え,道に近いものになっていることだろう。ほんとうにやりたいことというのは,娯楽的なものより,社会に何らかの貢献につながるもののほうが,飽きがこないと思われる。ボランティアなどはそんなに修行しなくても,比較的取り組みやすいのではなかろうか。
このように,多くの高齢者が報酬を目的とした労働以外の行動をはじめたとき,日本に新たな文化と価値観が生まれるように思う。
この価値観は,必ずや新しい価値観を生み,新しい需要も掘り起こすのではないだろうか。さしあたって現在の社会が老人の生き方に問題提起しているのは,老人介護の問題である。介護保険でいざというときの心配がなくなったというよりは,すべてがお金で処理されることが明確になった以上,少しでも倹約して老後に備えようという風潮を生んだ。
これではどんなにお金があっても消費には回らない。セーフティーネットというならば,まず老人がいざ介護が必要になったときには,何の憂いも必要ないという安心感がなければ,消費拡大にはつながらない。あのキンさん,ギンさんでさえ,コマーシャル出演かなんかでお金が入り,その使い道を訊かれ,「老後のため貯金する」と答えたという。
野村サッチーは
15億円の所得をごまかして脱税したという。脱税などしなくてもどうせ使い切れないと思うのだが。やはり老後が心配なのであろう。介護といってもどうしても国家がやらなければいけないのは,特殊養護である。痴呆,徘徊はとても家族が支えきれるものではない。以前,岡光次官が特殊養護老人ホームを食い物にしたと大きく報じられたことがあった。
5年間に12箇所もの特殊養護老人ホームをつくったが,業者と癒着して6000万円もの賄賂を受け取ったというものであった。賄賂はいけないが,
5年間に予算規模を10倍にも伸ばし,短期間に12箇所ものホームを開設した業績は,今後到来する高齢化社会には,銅像を建ててやってもいいくらいの恩人だ。とても6000万円には換えられないくらい偉大な業績だ。一般の老人介護は,ボランティアでも家族でも何とかなるだろうが,特殊養護だけはいけない。現在はほとんどの場合,家族が担っているが,ほとんど家庭崩壊に近い負担が強いられているのが現状である。岡光次官失脚で特殊養護老人ホームの開設は遅々として進まない。
以上