今再び人生論

 「人間はいかに生きるべきか」、若かかりし頃 誰でもこの問題に悩み、多くの書物を読み、友と議論した経験を持っている。それが、就職して新入社員でこき使われ、結婚して子供ができて子育てに追われる頃、いつのまにか、この問題はどうでもよくなってしまうようだ。このことをマクロでみると、新入社員時代にこき使われることと子育てに追われることが、いかに生きるべきかの答えを与えてくれた、と見ることもできる。こんなことだったのなら、何も難しい本を読んだり、夜を徹して口角泡をとばして議論するまでのことでもなかった。

 人生観は人それぞれに異なってはいても、欲望が満たされるあるいはそのために努力することが生きがいにつながるといわれているが、こき使われることと、子育てに追われることが果たして欲望が満たされているのだろうか。むしろ、その逆で欲望がますます遠ざけられているのではあるまいか。

 欲望については、マルローの「欲望の五段階説」が有名であり、それによると、五段階目では自己実現の欲求だそうであるが、こき使われることと子育てに追われることはどう考えても、自己実現とはいいがたい。それなのになぜ生き方に対する悩みが消えてしまうのだろうか。

 わたしはその原因はお金にあるとみた。欲望だったら、満たされれば、さらに上級の欲望を求めるというように、次第に変わっていくものが、お金というものがあるために、お金を増やすこと自体が目的になっているふしがある。お金さえあれば何でも実現できそうな気がするし、事実、お金がなければ自己実現は困難な場合が多い。だから、とりあえずお金をできるだけ稼いでおこうとするのだろう。このできるだけというのがクセモノで、どれだけあればよいというものでもない。最近は、高齢化社会の問題として、老人介護保険が論議されているが、医療ならともかく、本来助け合いに属するような介護がお金で処理されるようになると、それこそ、どんなに蓄えがあってもまだ心配ということになる。

 これがもし江戸時代であったら、長屋で暮らす熊さんと八っつぁんは「宵越しの金は持たねえ」などと粋がって、事実、一銭もお金がなくても生活ができたにちがいない。それに、もし病んだとしても隣近所がめんどうをみてくれて、とくに不自由がなかったことだろう。

 それが、すべての価値をお金で換算するようになると、人々はとりあえずお金をできるだけ蓄えようとするに決まっている。その結果、世界の貯蓄の1/2〜3/1にものぼるといわれる1200兆円もの蓄えがありながら、今なお不景気で生き残りのための激しい生存競争を迫られている。結局、どんなにあってもまだまだ足りないのである。たしかに持てる人がごく一部の人のに限られてしまっていることはあるが、自由経済主義のもとで競争を強化すれば、それは緩和されるよりは、より顕著になるに決まっている。

 ことここにいたり、人間の幸福とは一体何なのかという問題が、現実化してくる。だいたいが学生の分際で人間はいかに生きるべきかなんて、生意気過ぎたのだ。まず、生活に必要なお金を稼いでそれからどうすべきかという問題なのに、親のスネカジリの貧乏学生のくせに、そんなことを考えるから、ヒッピーなんていうものが生まれることになる。生活力がない者が世俗的な生活を否定するから、残るものはヒッピーしかないわけである。

 やはり、衣食足りて礼節を知るではないけれど、きちんと生活ができてその上で何を求めるかということだったのだ。ところが、いざそうなってみると、すっかり日常生活に染まってしまって、それ以上のものを求めないか、あるいは、とりあえず何でもできるお金をできるだけ蓄えようとするしかなくなってしまう。 このことは、できるだけ長生きしたいということによく似ている。長生きというのは何歳という定義はない。せいぜい平均寿命より長ければという考えも、お金に似ている。とりあえず人並みのお金がほしいという。

 長生きしたからといってとりわけ何をしたいからではなく、単にできるだけ長い方がよいというだけである。お金も多いに越したことはないと誰しも思うために、金持ちのところへどんどんお金が集中してしまう。

 明治17年の秩父困民党一揆の時は、田1反10円の時代に高利貸しは数年間で1万円を超えるお金を稼いだという。それは、それまでの地租が、物納から金納に変更になったが、米相場は大きく変動したため、農民は収穫期の暴落時に米を手放さざるを得ず、結果的に借金体質になり、ますます金持ちが太るという結果を招いたわけである。これは資本主義の本質であり、現在でも大差ない。

 現代において一揆が起きないのは何とか衣食が足りているからであって、これが脅かされると、人間は命さえかけて戦う。太平洋戦争がよい例である。

 そして衣食が足りると、できるだけお金を稼ごうという価値観に陥ってしまう。 それはまた、使い切れないお金を、一部の人に集中してしまうために、使われることなく蓄えられてしまう。これを打ち破るために、能力主義を導入しようとしているが、効率化と競争の強化はますます貧富の差を大きくする。しかしほとんどの意欲がある人は、能力主義を歓迎している。それは自分が勝ち組に入れると思うからであって、勝ち組は次第に少数化して行くことを知らない。ビル・ゲイツを見よという一言に幻惑されてしまう。ちょうど当たることのない宝くじを買い続ける心理に似ている。期待値があまりに大きいために、期待値×確率までいたずらに大きくなったような錯覚に陥る。これこそ幻惑でなくて何であろう。

 だからといって競争する必要がないともいっていない。要は戦わなければいけないところをよく見極めるということだ。

 スチール板のダンピングの問題があったが、あれはトン当たり200ドル〜600ドルのうち600ドルのものが、アメリカ製のものに比べて極めて高い品質のために、そんな高品質なものが、600ドルで売れるはずがないというのが、ダンピング提訴になったのだという。それを教えてくれた近所の住人で三井物産で鉄を扱っている営業マンは、これからの日本の課題はいかにして200ドルのレベルでの競争に勝つかだという。とても信じられない話だ。やはり日本はすべてに勝つのではなくて、高品質のところでだけ勝てばよいのではなかろうか。

 ほんとうに勝たなければいけないところでは、たとえば、トヨタにしても、日本のような高コスト社会でも立派に競争に勝っている。ところが、公共事業のように競争する必要のないところでは、欧米の3倍近い価格になっている。そのことはそれだけ国が豊かということである。ちょうど労働者の所得が大きいということと同じことを意味する。いってみれば、輸出産業で稼いでそれを国内で再配分しているということだ。

 貿易が毎年黒字で、為替レートが購買力平価に比べてはるかに円高で、個人金融資産が世界の1/2にも迫ろうという蓄えがありながら、何のためのリストラで何のための産業競争力強化であろうか。たしかに特殊法人など既得権益に守られた不公平感はあるが、その不公平感と企業利潤は従業員にではなく、株主に行くべきだという不公平感とどちらが公正であろうか。どちらも不労所得だが、株主の場合は誰にもチャンスが同じようにあるような気がするためか、グローバルスタンダードだとして社会が受け入れている。ところが、特殊法人の方が、単なるトンネル会社という批判はあるものの、少しは役割を果たしている点は、完全な不労所得ではない。むしろその関係業界の所得再配分的色彩が濃い。

 その再配分の構造が内需につながらない資産の蓄積を生み出していることこそが問題なのだ。一言でいうなら、年寄りが多くの所得を得て、お金がない故に欲しいものややりたいことを我慢している若年層が低所得だという構造が、経済を停滞させる元凶になっている。若い奴らにお金を持たせると無駄使いするから、借金で縛っておいて、後年歳をとって無駄使いする元気がなくなった頃に、借金を返済し終えるというシステムである。このシステムは発展途上国にはぜひ必要なシステムであるが、社会が裕福になって、衣食住の生活必需経費以上の所得が得られるようになったら、以降は無駄使い(文化体育費ともいわれている)こそが経済を引っ張る原動力になってくるはずである。

 したがって現在の日本経済を活性化したければ、年寄りがお金を出したくなるような製品なり文化なりを産み出すか。無駄使いに飢えている若者層に厚く所得を配分するかどちらかしかない。両方やればもっとよい。

 現在の日本でもやっと高齢化社会対応の文化が議論されるようになってきたが、介護が中心ではあまり期待できない。介護では元気なお年寄りは、ますますいざというときのためにお金を貯め込んでしまうからである。貯め込むのではなく、お金を使い切ってしまいたくなるような気にさせるものが必要である。

 別荘での田舎生活などはその例のひとつである。日本では、別荘というと本当に別荘だけであるから、単に滞在するだけだ。この方式だと年に数回行くだけということで、だったら旅館に宿泊した方が簡単でコスト的にも有利だということで、あまり人気がない。ところが、別荘と野菜栽培がセットされていると、毎週行かなければならない。別荘の稼働率向上と単なる滞在ではない生活自体を楽しむ新しい文化が生まれる。欧米ではかなり普及しているようだ。

 現在の日本でこれを実現しようと思ったら、現職をなげうって田舎に引っ越すしかない。するとその日から収入の道は閉ざされ、子供の教育も自然のなかで育てるという価値観に転換を余儀なくされる。したがって、それを実現する人は変わった人ということでテレビでも紹介されるほどである。

 これは一例だが、お金を貯めるのではなく使い切ってしまいたくなるほど魅力的なものがないということだ。せいぜい海外旅行程度というのは寂しい限りである。

 最近、40〜50代男子の自殺が増えているという。もし、人生の目標がお金を稼ぐことだけで、しかもそのお金を稼ぐ手段が自分の意志ではなく、景気だとか、企業経営者に握られているとすれば、不景気になったら、自殺をしなければならなくなる。また、お金ではなく、たとえば老人福祉の仕事をどんなに安い給料でもいいからしたい、という極めて高度な目標を持っていても、公務員に採用されない限りは、生きて行くことさえ困難になってしまう。競争社会だから、どんなに働く意志があっても、採用されなかったら、脱落者として自殺しか道はないというのは、どう考えても矛盾がある。この矛盾はどんな労働も経済性が成り立たない限りは存在し得ないというところから根を発している。しかもその経済性は自分で決めることができなくて、社会的に決まっているものが多い。たとえば、ある人が農業が好きで、体力がなくてあまり働けないが、昼飯代に毛が生えた程度でもかまわないから、働こうと思っても、その道は閉ざされている。

 労働者保護のための法律が、お金を目的としない労働者を法的に閉め出してしまっている。

 ある分野の専門家が大学の研究に無償で参加したいといっても、その道は閉ざされている。ところが、アメリカでは、大学の研究に無償で参加しているケースはめずらしくなく、暗号の世界的特許を持っているのは、こうしたボランティアだということをNHKテレビで紹介していた。労働をなぜお金で置き換えなければならないのだろうか。すべての労働をお金で縛ってしまっているから、労働の場が見つからない者は、生きる目標を失うことになる。

 「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組で、ある外人が、自分はお金をもらえなくても働くことがあるが、日本人はお金をもらわない限りは働かない、といっていた。これをきいてわたしは思わず、「これはすごい意見だ」というと、妻は、「ばかねえ、働くのは、お金のために決まってるじゃないの」といわれてしまった。

 報酬を目的にしない労働はボランティアとよばれているが、ボランティアというと、障害者や寝たきり老人の手助けなどごく限られているが、本来すべての労働に対して道が開けているべきだ。そうすれば職にありつけないからといって自殺する人はいないだろうし、生きる目標もお金ではなく、何をなすべきかという本来の姿に戻る。原始社会ではそうだったはずだ。

 極論をいうならば、いかに生きるべきかを悩んだときは、自分を仮想的にも原始社会に身をおいてみることが有効ではなかろうか。

 そんなことは口では言っても現実は不可能であることはいうまでもない。ただし、つり、キャンプ、山菜、家庭菜園など原始社会から受け継いでいるとおぼしきものはたくさんある。これらに音楽、ダンスを加えればかなり本格的だ。さらに宗教が加われば、それだけで十分充実した人生が保証されるはずである。

 ところが、現実では社会や、マスコミや、評論家が決めた価値観に引きずられ、しかもそれらはカネがかかって自由にならない。原始生活でさえアウトドアだ、ヨットだ、つりだと、お金がかかって仕方ない。だからそのお金を稼ごうとすると、断られてしまう。これでは絶望して当然である。それは、希望はお金を介してしか実現できないからだ。お金を介さずに希望そのものを希望とすればそんなことにはならない。どういうことかというと、キャンプというと、最新式のアウトドア用品を積み込んで、オートキャンプ場でその装備を競い合うがごとくでなければ、みっともなくてやってられないといことになりかねない。ことほどさように他人と比べて誇れるものしかやる価値がないといった状況が存在する。

 たとえば、多くの子女が子供の頃ピアノを習うが、ほとんどが二十歳前にはやめてしまう。ただ、モノにならなかった、という理由だけで。本来、楽器というものは一生楽しむために習うのであって、プロになるためではない。なのに、一流の演奏者になれなかったといって、やめてしまうのはなんともったいないことか。わたしは学生時代からクラシックギターをたしなんでいるが、歳とともに、指が思うように動かなくなってしまった。そんな話をアントニオ古賀氏とあるパーティーの席上でしたところ、氏から「あんたプロになるの」ときかれ、「とんでもない」と答えると、「プロになるのでなかったら、指が動く動かないなんて関係ない、続けなさいよ」といわれた。ピアノだって、プロになれないからやめるのではなく、一生自分の楽しみとしてやっていけばよいのだ。そこに楽しみを見いだせないのは他人と比較するからだ。他人と比較して誇れる場合しか、楽しみを見いだせないとは、なんと精神が貧困なことか。何の世界でも上には上がいるし、下には下がいるものである。とはいうものの、ピアノなど個人プレーの場合はよいが、団体プレーの場合は余り下手では一緒に遊んでもらえないということはあり得る。従ってより多くの人たちと交流するためには、練習を積んで上達しなければならないということはある。

 ところが、練習して上達できる種類のものはよいが、容貌、容姿といった先天的なものの場合は、初めから絶望しかないというケースもあり得る。

 最近、20代の女性の自殺が増えているという。女性の場合、どんなに研鑽を積んでも、男性から見初められない限りはすてきな恋愛は成立し得ないということを直感的に察知している。生まれつきブスに生まれた女性に対し、人間の魅力は容姿ではなく心こそ大切だ、などという忠告は何の慰めにもなりはしない。それでも、女流作家でしばしば見られるような、容姿にかかわらずすばらしい才能を開花できた人ならともかく、大多数の人はいわゆる普通の才能であろうから、誰からもちやほやされることはなく、しかも、その状況は死ぬまで続くことをよく知っている。これが絶望でなくて何であろう。生きていても何もいいことがないのなら、いっそのこと死んでしまいたいと思ってあたりまえである。ただ、その勇気がないためにしかたないから生きているというのが、大多数の普通の女性ではなかろうか。

 男性の場合は女性とちがって生まれついた容姿によって人生を左右される度合いはうすいが、逆に、後天的に身につけた能力が決め手になる。これを評してある評論家(渡部昇一)は、「女は金、男は鉄」と評した。金はそれだけで価値があるが、鉄は加工されて何か機能を果たして初めて価値が生まれるということである。これまでは鉄はさまざまに加工されて、それぞれに生きがいを見出すことができたが、これからはそれぞれの機能を発揮したことにより、いくら儲けたかが尺度になるため、剃刀と包丁と鉈と鉞の競争時代を迎えた。そして競争に負けて金銭的儲けを産み出さない限り、どんなに切れ味鋭い刃物であっても単なる石ころのように無価値なものに成り下がる。これがリストラの正体である。そのため今、40代50代のリストラ組の自殺も増えている。この哀れな男たちに夢と希望を与えることができるだろうか。

 剃刀も包丁も鉈も鉞も皆生活には必要なものであるが、お金を稼ぐ局面ではごく一部のものが競争に勝ち残り、それ以外は不要のものとなってしまう。それではがんばって競争に勝ち残ろうと思っても、単に勝者が入れ替わるだけで、何の変化もない。それでは血のにじむような努力は何のためだったかということになりかねない。

 宇宙飛行士の向井千秋さんは講演会で、小さい頃からずっと夢を見続ければ、きっとその夢はかなう、という話を子供たちにしているが、それは夢がかなった人の話であって、その裏には夢が破れた何百何千という人たちがいることをいわない。ちょうど ピアノは習ったが、一流演奏家になれなかったからもう弾かないという人たち、生まれながら美貌でもなく、才能もないことを自覚している女性たち、競争社会でリストラされた企業戦士たち、こういう人たちこそが問題なのだ。

 本当は人生論はこういう人たちのために必要なのであって、競争に勝って大富豪になったビル・ゲイツや宇宙飛行士が実現した向井千秋さんには無用のものなのだ。ところが、人生訓話はこういう名士にお願いするから、一般人はその時だけの麻薬的恍惚感に浸るだけで、翌日からまた死ぬほど無意味な時間が続くのである。

 きんさん、ぎんさんでさえ、老人性痴呆のために、正の字さえ正しく書くことはできなかったが、有名になったらボケも治って正の字もきちんとかけるようになったという。やはり、有名になってみんなにちやほやされるのが一番の生きがいであることはまちがいないようである。しかしみんなが有名になるというわけにはいかないから、人間にとって人生論はどうしても必要なのだ。

 鳥や動物は人生論がなくても皆自由に生きているというのに、人間はそれができないとはなんと哀しい動物であることか。そういえば、人類はパンドラの箱を開けてしまったときに、あわてて閉めたときに、希望だけを閉じこめてしまったために、希望だけは自分では見いだせない動物になってしまったのかもしれない。希望がない状態を絶望というが、絶望感を抱いて人間は生きてはいけない。絶望の先に希望の光を見出してこそ人間は生きていけるのだ。その希望の光は自分で見出すことができない以上は、他力で見出すしかない。

 競争に勝つということも他力の一種と考えることもできる。敗者がいなければ勝者は存在し得ないからである。その意味で、田村副社長がローマオリンピックで負けたにもかかわらず、勝者のイタリアチームから讃えられたという話は、人間社会の深い哲学を暗示するものであろう。

 もう一つは、自己完結形の他力である。それは、自分が自分の人生を生きているのではなく、何か大きな力によって生かされているという考え方だ。最近では五木寛之、石原慎太郎が法華教の思想として紹介している。 大きな力によって生かされている人生を、自分の都合で自殺によって葬り去ることは許されない。また絶望の淵にある時には、精一杯希望の光を見つけてあげなければならない。妻や子に対してさえ、できるだけのことをしてあげるのだから、自分に対してはなおさらのことである。

 それにしても現代はなんと人生哲学が枯渇していることか。人類はソクラテスの時代からカント、デカルトの時代まで学問といえば哲学であった。それが文化文明が進歩した時代に枯渇してしまったのはなぜだろう。それは一に経済の発展のせいだと思う。人生の幸せはすべてお金次第という価値観が盤石のものとなったために、以後一切の人生哲学が色あせたということではないだろうか。これの影響のために多くの絶望をも産み出していることを忘れてはならない。

 絶望に追い込まれた人たちの一部は自殺の道を選び、一部は訳もわからないイライラを覚えて通り魔的殺人を産み出しているというのが、最近の状況ではないだろうか。

 絶望を産み出すもう一つの要因に、自由があろう。教育の自由、職業選択の自由、結婚の自由、子を産む自由と人生すべて自由が保証されることは、最高のことであるが、自由の選択には極めて深刻な責任をも伴う。その結果、自由の重さに耐えきれずに、絶望に落ち込むことになる。

 昔だったら、本人の意思に関係なく親の決めた結婚相手と結婚させられ、泣く泣く嫁いだものの、子供が産まれ 子育てに追いまくられる頃になると、苦労は多くても幸せを絵に描いたような人生を送ることができた。しかし、本人の自由意志が尊重される時代になると、結婚は愛がなくては成立しなくなるため、ドラマにあるような愛が生まれることは極めてまれであるために、結婚自体の成立を難しくしている。

 職業についても、昔だったら、食べるために仕方なく就職し、そして、本人の希望に関係なく配属先が決まり、先輩にこき使われながら次第に一人前になっていったものだが、現代は、自分のやりたい職種が見つかるまでは、就職さえしない時代になった。大学卒の就職率は60%だという。いくら不景気とはいいながら、食べるためには何でもかまわないというなら、決してこんなことはおこらないはずである。

 以上のように自由というものは、自ら人生を希望を見出して生きて行く気力と能力がある人以外にとっては、かえって重荷となる。むしゃくしゃしたからといって通り魔殺人を犯した人は一様に、おとなしくてまじめな人だったというのがそれを示している。したがって自由を自分の力では責任をもって処理できない人たちのために、生きる場を用意してあげる必要がある。そしてそれはほとんどの一般人がお世話になることになるだろう。これまでは終身雇用のサラリーマンがそれに相当していたものだったが、自由競争原理の導入によって今消え去ろうとしている。ビルゲイツや孫正義の競争の話と、一般サラリーマンの競争の話を混同してはならない。これまでは一隅を照らすという価値観が存在したが、これからは、一隅を照らしてもお金にならなければ、無価値のものとして切り捨てられるため、多くの絶望が産まれるおそれがある。 これに対する対応が21世紀の最大の課題となろう。