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世紀の価値観人間は何のために働くかと問われれば,豊かに生活したいからと答えるだろう。日本人も豊かさを求めて,、戦後50年以上にわたり必死に働いてきた。その結果,個人金融資産1300兆円という途方もない財産を持つに至った。ここまでは文字通りのサクセスストーリーであり、童話の世界だったら,その後日本人は末永く幸せに暮らしました。という文で結んで、めでたしめでたしであろう。
ところが、現実は小説より奇なりというか、きびしいというか、生き残りをかけてますます過酷な労働を要求される時代になってきた。どこが間違っているのだろうか。
アメリカは日本とは違い、働かなくても、株の値上がりや、知的所有権や、訴訟によって居ながらにして資産は増え、それが消費を引張り空前の好景気が続いている。
アメリカも貯蓄と節約に努める一方,一生懸命働いて経常黒字が続いているというのなら話はわかるが、貯蓄はマイナス、貿易赤字は年600億ドルにも上るというのに、なぜなのだろう。
この違いは、経済評論家は種々分析はしてくれるが、つまるところ、内需が活発かどうかだろう。アメリカで貯蓄率がマイナスということは、借金してでも消費に回しているということである。日本では実質0金利でも貯蓄率が高いということは,消費したい人にはお金がなくて,お金がある人は使い道がないということを意味している。私自身の記憶でも、マイホームがほしいばかりに、ひたすら生活費を切り詰めて貯蓄に励んだことを思い出す。
国全体として世界の貯蓄の1/2〜1/3にものぼる個人金融資産を有していることになっているが、それを有しているのは、たかだか50〜100万人だという。これを一人当たりに換算すると,12〜24億円ということになり、とても使い切れるお金ではない。それが老人だということになればなおさらである。
アメリカでもたしかに大金持ちはいるが、ジャック・ニクラウスが、自家用ジェット機を何台も持っていたり,ビル・ゲイツは日本円で11兆円もの大金を寄付したとか、日本では考えられない文化を持っている。日本では、ジャンボ尾崎が自家用車としてリンカーンを持っているくらいで,青少年に夢を与えるなどといっている。ビル・ゲイツに匹敵する日本の成功者である京セラの稲盛会長は、仏門に入ってしまった。これでは、日本にどんなに金持ちが生まれても内需拡大には結びつかない。奴隷社会で発展したアメリカと、主人も使用人も一緒に農作業をして,いっしょに休憩して、同じおやつを食べる日本文化との違いだろうか。
戦後の目覚しい経済発展も、隣の家でテレビを買った,マイカーを買ったといって、我が家でもぜひということで、月賦で買ったことが日本の経済を引張ってきたのではあるまいか。しかもその購入者のほとんどはサラリーマンだった。そのサラリーマンは経営者の社長とそんなに大差がなく、いわばみんなで分け合ってきたのだ。アメリカでは,人件費を極限まで節減するから、末端労働者の所得は驚くほど低いし,経営者のそれは桁外れの巨額にのぼる。そして、この方式はグローバリズムという大きな波となって日本を席巻しつつある。すなわち、人件費などのコストを最小限に抑制し、会社収益を最大限に追求し,その成果は経営者および資本化に還元するという価値観である。この価値観は,競争主義、能力主義という一見見栄えのする衣装をまとっているため,日本国内における世論調査でも大方の支持を得ている。
能力があり業績も顕著な優秀社員と無能でやる気もなく、業績も上がらない社員と同一給料でよいかどうかと問われれば,だれでも能力、業績は報いてほしいということだろうが、これまでの日本でも、能力、業績が全く報われていなかったかといえば、必ずしもそうではないはずである。またそのやり方で世界一の金持ち国になったはずである。その結果,現在の経済行きづまりを産んだということだろうが、その行き詰まりはバブルとその破綻の過程で富の配分が、一部の金持ちに集まってしまったことが原因であり,日本の高コスト構造における生産の非効率性が原因ではない。その証拠に、行き詰まったといいいながら、ロシアやアルゼンチンのように、単に紙幣を印刷するだけの経済ではなく,個人金融資産は世界一の巨額にのぼるほどの豊かさを現有しているのである。悪いのは制度だけであるから、そんなものは、法律を変えれば何とでもなる。
制度が悪いだけなのに、日本をここまで発展させてきた、世界に誇る高い生産性を生み出した文化を捨て去ろうとしている。本末転倒である。
日本の代表的悪商習慣の「談合」にしても、大新聞に大きな活字で報じるほど悪いことだろうか。納税者に損害を与えたという言い方がまかり通っているが、発注者も受注者も納税者であり、しかも当事者である。その当事者が双方とも納得づくで行う民主的な「談合」がなぜ逮捕されなければならないのだろうか。納税者は当事者以外が大部分だということだろうが、どの分野でもそう言ったことが行われているはずだ。それが文化というものだといいたい。こんなところでこんな発言をしても誰も咎めないだろうが,もし、政府の高官がこんな発言をしたら、それこそただでは済まない。
今のマスコミ、特に新聞は、ニュースとして報じるばかりではなく,その字の大きさで世論を煽っているところがある。戦時中でいえば、戦争に批判的な人を国賊呼ばわりで煽るのと、手法は同じである。最近発刊された「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」を読むと,いかに新聞が意図的に情報操作をしてきたかがよくわかる。しかし、戦時中の言論統制は、戦争遂行という国家利益に結びついていたから少しは理解できるものの,「談合」許すまじは一見正義に見えるが、国家衰退につながりかねない,重要な側面を持っている。
そんなことを理解するならば,単に「談合」があったとして大きな活字で糾弾するのでなく,本気で、その功罪を問うような記事があってもよいはずだ。それこそがジャーナリズムであろう。「南京虐殺」、「アジア侵略」、「従軍慰安婦」とみな同じ構造だ。
21世紀が明けた。インターネットで21世紀という語が入っている書籍がどれくらい発行されているかを検索してみたところ,750冊ほど存在した。しかし、その本の中で,価値観という語が入っているものは0冊であった。
わたしは、21世紀の人類を支配するものはこの価値観だと思う。この価値観をどこに置くかで、政治、経済、社会、環境等すべてが変わると思う。価値観次第では,再び戦争の世紀に逆戻りということもありえる。
幸か不幸か、現在は経済至上主義になって、武器に代わって経済が戦争の道具になっているが、それではたして人類の明るい未来があるのだろうか。
私は少なくとも,お金は人間社会に便利なものとして活用はするが、それが目的となって手段を選ばないやり方には、人類の幸せは20世紀には実現できないと思う。せめて、日本の分かち合う文化がグローバリズムに打ち勝ち、世界的価値観として広がれば,21世紀はそう悲観したものではないと信じる。
そのためにも、日本の悪習慣としてではなく,高度な分かち合う文化を世界に発信し続けるべきではなかろうか。ジャーナリズムの最後の良心に期待する。