ワラビ

今年も、新潟県までワラビ取りに行ってきた。私は信州生まれの信州育ちで、物心つく頃から春になると、近くの山へワラビ取りに行った。そして、母の作るあのぬるっとしたワラビの卵ととじの味は、いまでも忘れられない春の味覚であった。なのに何故新潟県まで行くことになったというと、信州と違い雪の多い新潟県は、初夏に雪が溶けると一斉に植物が芽生えるため、信州のように長い時間をかけて少しずつ芽生えるのと異なり、山菜は圧倒的に柔らかくおいしいことを知ったからである。

子供の頃から食べている懐かしい味とは言いながら、果たして遠く新潟県までわざわざ出かけて取りにゆくほどのものかと言われそうだが、その理由はある本に出会って判明した。

それは、かの食の哲人と言われた北王子魯山人の「美食の神髄」という本のなかで、この世の究極の食材は、“海にふぐ、陸にわらび”という一節を発見したことだ。一見味がないように想われるが、かみしめた後に、無限の広がりを感じるとのことである。それを見つけたとき、自分がこれまでワラビにとりつかれてきた理由が分かったような気がしてうれしかった。

しかし、これほどの食材であるワラビを食するのは世界で日本だけらしいことがわかった。

というのは、あの文豪であり医学者であった森鴎外の手記にあるとおり、ドイツ留学時に済んでいた家の庭に生えていたワラビを調理して食していたところ、医学者の同僚から、何度も止めるようたしなめられたという。

確かに、ワラビは灰などであく抜きしないかぎり、苦くて食用にはできないため、あく抜きの文化がない限り、食用に供されることはない。どうやら、あく抜き文化は日本特有らしい。

というのは、日本の古典「枕草子」第99段に、加茂の社の郊外にホトトギスの声を聴きに行こうということになり出かけ、その途中、開順朝臣の館に立ち寄ったところ、自慢のワラビをしきりに進められるシーンが描かれている。平安時代には、すでにあく抜き文化が根付いていたことがうかがえる。

現代においても、私の亡妻の親友であった、あのオウム狙撃の被害に遭った国松元警察庁長官の奥さんの話に寄ると、海外出張に同行したとき、パリ郊外のブルゴーニュの森に立派なワラビがいくらでも生えており、誰も採取する人はなく、ほしいまま採集できたという話を聞いたことがある。また、中央アジアの草原では、日本への輸出だけのために、地元民が採取している姿をテレビでみたことがある。

要するに、ワラビを食用にしているのは、世界で、日本だけらしい。

その一方で、工場で生産された塩化ナトリウムを食用に供しているのは、世界で日本だけと言うのは、何というチグハグ。人災というしかない。