文系か理系か

ユーチューブ、高橋 洋一チャンネルで、氏は東大法学でも、東大ア、ホウ学部と言って、物事は文系頭脳ではなく、理系の理路整然と筋の通った判断こそ重要だと説いていた。

森友学園疑惑も、氏に言わせれば、隣接地を豊中市の公園用地として売却した際、後に、大量の廃材の埋め立ての事実が発覚したため、補助金を交付して実質0円の払い下げを行った事を勘案すれば、森友学園疑惑なんて、その時点でおしまいだと、ユーチューブで発信している。

ところが、8月、安倍元首相の国葬なんてとんでもないと、落合恵子氏らは、デモ行進で訴えた。森友学園疑惑にまみれた元首相の国葬なんて絶対許されないという。

この事実を知ったとき、理系頭脳と文系頭脳の判断の根本的差異を実感した。

理系頭脳の判断では、歴代最長の首相在籍、過去どの首相より多く外国との交流、凶弾により、突然倒れる。これだけで、十分国葬に値する。

にもかかわらず、落合恵子氏らは、森友、加計学園疑惑にまみれた元首相の国葬なんて絶対許されないと主張している。

この判断の相違は、実態を重視するのか、疑惑を重視するのかに帰着する。

理系の判断では、事実こそ重要であって、疑惑なんて疑惑にすぎないとして、切って捨てる。

ところが、文系頭脳では、疑惑が払拭されない限りは、すべての実績は、虚無だとして切って捨てる。

原子力についても、理系頭脳では、万一の津波対策を実施していなかったための事故であり、その対策さえ実施すれば、十分安全操業が可能とするが、文系頭脳では、人間の判断には限界があり、まさかの事故に備えることは困難と、人間の判断の限界を指摘する。私の判断では、万一の際の対策は必要と判断したものの、それを実施すると地元説明でいたずらに不信感を招くとして、対策を見送ったことがすべてであった。その証拠に、5,6号機は対策済みで事故を免れた。1〜4号も対策していれば事故は防げたのだ。それをさまがてたのは、そんなおそれがあるのなら、すぐに原発を底止しろという世論を配慮した結果であった。私に言わせれば、世論が、理系の専門家の判断を誤らせた結果だと言える。しかし一方、どんな世論、異論があろうとも、必要な対策を実施するのが事業者の責任である。それはともすると、上司を騙してでも実施するのが担当者の責任である。わたしは、水力発電部門であったが、部門の責任者として、上司に数々のうそを並べて、深刻事故防止対策を実施してきた。これは冷厳な理系の頭脳の判断によるもので、それがひとたび、世論というような文系の情緒的判断を勘案したとき、すべて崩れ去る。

菅直人政権時代、原子力ムラの独善が事故を招いたとして、原子力技術関係者の判断に任せるのではなく、一般国民の意見こそ重視すべきというか風潮が生まれた。

この波に乗って、落合 恵子氏も反原発運動を開始した。しかし、原子力技術はきわめて高度な技術であり、素人判断が通用する世界ではない。

原子力技術者は、原子力ムラを守るために、不都合な真実を隠蔽しているなど報道が絶えない。ところが、実態は、技術者はきわめて実態と向き合っているが、原子力が他の部門と異なるのが、世論と直接向き合うことである。世論が、本来の技術者の判断を曲げる事なきを願う。

落合 恵子さんはどうか、原子力村の技術者の判断は信用できないから断固反対ではなく、お任せしますから、二度とあのような事故を起こさない安全な原発の実現をお願いしますと、なぜ言えないのだろうか。自分自身が原発反対を主張するのは自由であるが、しかるべき機関でしっかり議論してほしい。

この問題は、文系の情緒的判断に流されることなく、冷徹な理系判断によって決められるべき問題なのだ。