景教
「景教」と大辞林で引くと,ネストリウス派キリスト教と書いてある。これだけでは何のことかサッパリわからない。そこで調べてみたら,キリスト教が聖地エルサレムから次第に広まってゆく過程で,西のローマカトリックと東のペルシャでの教会との間で,論争が起こった。それは,当時のヨーロッパでは,イエス・キリストの生母も聖母マリア様として信仰のの対象となっていたものを,東の教会の主教ネストリウスが,神はイエスキリストだけであり,生母マリアは神ではないと,異を唱えたことから,東のキリスト教はネストリウス派キリスト教とよばれ発展していった。シルクロードを経由して中国に入ると,それは景教とよばれ一大ブームを巻き起こす。今でも中国には,景教大流行の祈念碑が残っているという。
その景教は日本には,4世紀に秦氏によってもたらされた。1万8千人あまりの一族が中国における過酷な万里の長城の築造のための使役に耐えきれずに渡来したのだという。 秦氏は養蚕を日本にもたらし,「はたおり」というのは,秦氏が伝えた織物技術ということで,そうよばれているという。秦氏はまたウズマサ信仰とも結びついており,秦氏が建立したという広隆寺付近は,ウズマサとよばれているし,「日本書紀」には七世紀には世に秦氏のことが話題になり,「ウズマサは神とも神ときこえ来る,常世の神を打ちきたますも」という歌が,民衆の間で歌われ出した,と記載されている。
1908年に東京大学学長であった佐伯教授は景教に関する研究のなかで,ウズマサとは,イエス・メシアをあらわすアラム語イシュ・メシャからきたと伝えている。
また,いろは歌にも景教の影響が込められているという。
いろは歌は下記のように,7文字ずつに区切って書かれる。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむういのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
えひもせ す
ここで,右側の文字を上から読むと,とが(咎)なくてし(死)す,と読めるし,さらに,左上,左下,右下を読むと,いえす(イエス)と読める。すなわち,いろは歌には,「イエス,咎無くて死す」というメッセージが込められているという。また,いちよらやあえは,旧約聖書の言語、アラム語で神の人、ヤハウェを意味する,イーシエル・ヤハウェではないかといわれている。
聖徳太子は秦氏の秦河勝により守られ、太子を記念して広隆寺を建立したほどである。
それゆえか、聖徳太子は厩戸皇子ともよばれ、イエスが馬小屋で生まれたことと似せており、キリスト教の影響が強く出ている。ところが、聖徳太子は、仏教の功労者となっている。それは、神道の物部氏と仏教の曽我氏が激しく争って、勝利を治めた曽我氏が聖徳太子を利用したらしい。その証拠に、聖徳太子は、621年に母が死に、その二ヶ月後に妻が死に、さらにその二日後に太子自身がなくなっていることから、曽我氏によって毒殺されたのではないかということをいう人もいる。そして、そのタタリを恐れた曽我氏が太子を祭り上げ、法隆寺を建立した、とは、梅原 猛氏の分析である。大化の改新は645年だから、その24年も前に太子は死んでいたとは、知らなかった。
政敵を祭り上げることは、日本の古くからの伝統らしい。菅原道真の大宰府天満宮も、タタリを怖れての祭り上げだったという話は広く知られている。
ところで、広隆寺の弥勒菩薩像には、景教の影響が色濃く残っている。一般の仏教の像は一方の手を膝上に,一方の手を胸の前で立てて前方へ向けるか,両手を合掌するかであるが,弥勒菩薩は,親指と薬指を合わせて他の三本の指を立てている。これは,中国の景教の教会跡から発見された壁画の像と同じ仕草だそうである。本来キリスト教であった景教も次第に仏教の影響を受けていったあかしであろう。
逆に,仏教や神道もキリスト教の影響を受けているのであろう。特にキリスト教の聖書でも旧約聖書は日本神道の神話と大変似通ったところがある。
天孫降臨のニニギノミコトとイスラエル民族の父祖ヤコブ,ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚のいきさつ(姉との結婚も頼まれたのに,これを断った),海幸彦にいじめられる山幸彦と後にその兄を許したこと,山幸彦には4人の子供があり,その4番目の子供が神武天皇になったのに対し,ヤコブの子ヨセフには4人の子供があり,4番目のヨシュアがカナンを征服してイスラエルの祖となったことなどである。
また、天孫降臨はタカマガハラと伝えられているが、ユダヤ民族もタガーマ地方のハランという町が発祥の地とされている。
また、日本全国に多く存在する八幡神社はハチマンではなく、本来ヤワダ神社、すなわちユダヤ(ユダ)の神社だったという。そして、正月にはタネなしパン(マツァ)を供えるという。それはまったく日本の餅と同じではないか。
天狗信仰にしても、赤い大きな鼻はユダヤ人そのものだし、手に持った巻物は、トラの巻きといわれているが、旧約聖書のはじめの5巻は特にモーゼの五書といわれ特に貴重とされており、トーラーとよばれているそうである。そう、トラの巻きは羊のなめし皮に書かれたトーラーの巻物をさすのではないかといわれている。天狗には神通力があり、人間の到底及ばない能力を備えているということで信仰の対象になっているが、機織から建築技術さらには聖書にのっとった人間の有り方まで説いた彼らは文字通り超能力者に見えたことだろう。先日、出雲大社の地上40mにも及ぶ神殿の跡が発掘されたと報じられたが、これは日本人の技術というよりは、秦氏の技術であったことだろう。
諏訪大社に伝わる御頭祭は「ミサクチの神」の祭といわれ、「御贄柱」と呼ばれる柱に少年を縛り付け、殺そうとするが、別のところから来た使者がこれをとめ、代わりに鹿がささげられるという祭だ。これとまったく同じ話が、聖書の創世記22章に出てくる。
イスラエルの父祖アブラハムの信仰を試そうと、神が彼の愛する子イサクを生贄としてささげなさいと伝えた。すると彼はイサクをつれてモリヤの地(現在のエルサレム)へ行き、イサクを殺そうとしたその瞬間、神の天子が現れそれを制止した。そして代わりに羊を生贄にしたと記されている。鹿と羊の違いだけでまったく同じストーリである。しかも、諏訪大社はモリヤ山(守屋山)に面しているという。
神輿についても、聖書に出てくる契約の箱に酷似している。
紀元前10世紀、イスラエルの王ダビデは神との契約の箱をエルサレムに運び入れた。それは大勢の長老たちによって、二本の棒で担がれた。ダビデは喜んで裸に近い格好で飛び跳ねて踊り、全イスラエルは歓声をあげ、笛、ラッパ、シンバルを打ち鳴らした。ダビデの妻ミカルはその姿を見て彼をさげすんだとある。今風にいうなら、「バカみたい」といったところであろうか。これはまさに、日本の神輿の様子と全く同じである。そして,この契約の箱には三種の神器(十戒の石の板,マナの入った壷,アロンの杖)が入っていたという。
日本の天皇家にも三種の神器(鏡,まがたま,剣)が伝わっているが,まがたまだけが形状を異にする。その形状は,英語の apostorophe に似ているが,旧約聖書の言語,ヘブル語で神の名前ヤハウェを表す文字の頭文字の形そのものだそうである。
そのほか、日本の習慣や風俗で旧約聖書そしてユダヤ人のそれらに似ていることは枚挙にいとまがない。したがって、ここではその一部あげるにとどめるが、きわめつけは、月の運行に関する聖書の暗号である。
トーラーと呼ばれる旧約聖書の冒頭の「創世記」の「神は天と地をつくりたもうた」の出だしで始まる文中で新月と三日月の表現から逆算して行くと、月が地球の周りを一周する時間が計算できるが、この方法で計算した月の運行周期は29.53059日で、過去の何人かの天文学者が算出したものより正確で、1968年に、アメリカのNASAが観測衛星による観測を元に算出した数値と同じだという。
ユダヤ人は歴史上太陽暦その他いくつかの暦は存在したが、聖書が教えているからという理由で、ずっと月の運行を元にしたユダヤ暦を守って現在に至るという。
聖書の暗号については、数年前に出版された「聖書の暗号」で、世界の歴史に刻まれるような出来事、人名、発生時期などは、旧約聖書の最初の五巻(モーゼの五書)に、ある文字間隔で暗号として記されていることを証明した。
最近、久保有政著による「聖書の暗号は本当か」という本が出版されたので読んでみた。著者は、ヘブル語で記された旧約聖書全文をインターネットで購入し、ヘブル語を解するユダヤ人の指導のもと、歴史的事件をヘブル語に翻訳して、コンピュータで検索したところ、やはり、最初の五巻にしか、その暗号の存在は認められなかったという。
CIAの暗号の研究では世界的権威であるハロルド・ガンズ博士は、そのうそを暴いてやろうとして、自ら検索を試みたところ、事実であることが判明し、結局、博士はユダヤ教に入信してしまったそうである。
以上のとおり、うそを暴いてやろうと取り組んだ人がいずれも、その真実に打ちのめされている。私自身もこの種の話にはだれよりも猜疑心を抱く人間だと思っていたが、二冊の本を読んでまったく信じ込まされてしまった。これは私自身が、自分では気がつかなくても、誰よりもだまされやすい性格なのかどうかを確認してみたくて、2〜3の人にその本を読んでもらっているが、いずれも、単なる偶然ということにしかとれないとのことである。
世界七不思議でもピラミッド、ナスカの地上絵、巨石文化などについていろいろの解釈があるが、それらは単なる現代人の推測でしかないが、聖書の暗号は、推測ではなく、その語句が何文字間隔かで厳然と存在するわけである。しかも、存在するのは、旧約聖書の最初の五巻に限定されているし、聖書以上の大作である「戦争と平和」には存在しないことが確認されているのだ。それでも単なる偶然と言っていられる人の気が知れない。
それが真実だったとしても、だからどうしたと言われてしまうと困ってしまうのだが、
少なくとも、旧約聖書をもっと研究して、人類はどのように生きるべきかをさぐるべきであろう。たとえば、現在の経済至上主義がほんとうに神の意思に反しないのか、ソドムとゴモラが神の逆鱗に触れて滅ぼされたように、カネ儲け至上主義の人類は神の逆鱗に触れて滅ぼされてしまうかもしれないのだ。
意外に、利息と投機を禁じたイスラムの教えが、神の意志かもしれない。
所詮、人間が考え出した、良かれと思ってやることは、どんなに世界人類共通の価値観だと言い張っても、所詮一部の人間の価値観でしかない。グローバリズムなんかがよい例だ。逆に、世界中の人が反対しようが、神の意志ならば従うしかないのではなかろうか。たとえば、人を殺すななんていうのは、旧約聖書を研究すると、書いてあるかもしれない。なぜならば、動物で、他の種ではなく、同一種のなかで殺し合いをするのは人間だけだからだ。
これこそ、アダムとイブが蛇からもらったりんごを食べてしまったからにちがいない。
罪深い人間は、今こそ神との契約を再確認するときではないだろうか。それは、聖書にそのまま書かれているとは限らない。暗号の形かもしれないが、コンピュータを駆使すれば解読できるはずだ。現に、確認された暗号は、コンピュータを用いなければとてもじゃないが、書けるものではないことが確認されている。