ISO9000の荒波

 いま,日本中をISO9000の嵐が吹き荒れている。

 企業活動における生産物の生産過程を自社の責任においてではなく,第三者機関に認定してもらおうということである。そのことにより,品質の保証をも得て,カスタマーに対して,自社製品を選択してもらおうということであろう。

 確かに,お客様は,どこの製品を買おうかと迷った際に,ISO9000の認定を受けているということは,一つの安心感はあるだろうが,それは,製品の保証ではなく,製品の品質確保の社内システムの保証でしかない。しかも,その品質はある定められたレベルを維持することだけが目的であり,さらによいものを産み出そうという努力は,標準化という建前の前に,むしろないがしろにされることになりかねない。

 したがって,ある一定の品質は確保できても,それ以上のものは生産現場からは生まれずに,そういうものは,新製品開発機関でやることということであろう。

 これこそ,欧米型の生産システムで,20世紀の文明はこれによって発展したといっても過言ではない。

 しかし,日本の発展はどうだったのか,確かにこの手法も取り入れてはいたが,それプラス現場の改善活動ではなかったのか。つい先頃,「ジャパニーズアズナンバーワン」といわれた時代には,日本式QCを世界中が真似しようとしていたはずだ。それが,わずか10年とたたない内に,日本の生産システムは非効率だから,もっとリストラしなければ生き残れないといいだした。事実,護送船団方式の銀行や証券会社がばたばた経営破綻を引き起こす現実を目の前にして,生き残るにはグローバリズムを受け入れるしかないということに日本中が気がついた。ISO9000も正にこのグローバリズムの荒波の一つであろう。要するに,同じ土俵で相撲を取りなさいということだ。その裏には,同じ土俵で相撲をとれば,必ずアメリカは勝つ自信があるということだろう。

 終戦後のめざましい日本の経済成長を振り返ってみると,1ドル360円の為替レート高い輸入関税で国内産業を保護し,金の卵といわれる中卒の安い労働力を使い,終身雇用で退職金を餌に会社への忠誠心を強制し,ただひたすら会社のために働いた結果,世界で例のないほどの経済成長を実現した。初期の頃は確かにmade in Japanは粗悪品を意味していたが,今の若い企業人はそのことは知らず,made in Japanは高品質を意味していると信じている。しかも,必要以上の高品質のため競争力を失っているから,生き残りのためには,もっと品質を下げて,コストダウンを図るべきだという風潮が日本中を席巻している。その延長上にあるのが,ISO9000ではあるまいか。

 もっと品質を下げてという言い方は語弊があろうけれど,目的は品質の向上ではなく,品質の確保策だということだ。したがって,品質確保ができない会社はそれが必要であろうが,確保できている会社は不必要なはずである。

 トヨタ自動車はISO9000は必要ないと公言してはばからない。それだけ自社製品に自信があるのだろう。他の会社もみな自社製品の品質には自信を持っているのだが,認証が流行っているのは,取引の条件にISO9000認証を条件にする例がでてきているからだと聞く。極端な例を想定すると,トヨタ自動車はそのうちに,アメリカからISO9000の認証を受けていないという理由で,取引(輸入)禁止ということになるかもしれない。 そんなバカな,という方もいるだろうけれど,アメリカがこれまで日本にしてきた仕打ちは,自国の利益に反するという場合には,そんなバカなという仕打ちの列挙にいとまがない。戦前にさかのぼれば,ABCD包囲網による石油兵糧責め,広島,長崎での原爆使用による非戦闘員の大量虐殺,1980年代の経済大国となってからは,超円高,BIS規制,株式カラ売り,金利差の強制, 企業会計規則の改訂の強制などどれをとっても,正当化するばかりで,間違っていたと謝ったことはことはない。その結果,現在の日本は収益をあげても,自動的にその金はアメリカに吸収される構造ができあがっている。

 トヨタも現在はがんばっているが,1998年に「燃料ガス蒸発検出装置不具合賠償訴訟」で7兆円もの巨額を要求され,現在裁判で争っているが,これもアメリカ流のやり方の一例であろう。東芝のパソコン不具合に対する和解交渉で1100億円をとられたり,三菱自動車がセクハラ裁判でひどい目にあったのも同じである。日本企業をたたこうとすればどんな方法でもあるのだ。

 それは,アメリカが訴訟社会だから民間の問題ともいわれるが,三菱自動車の事例でもわかるように,マスコミがはやし立てて世論をあおるから,あんな無茶が通用してしまう。 そんなアメリカが世界一の経済大国となった日本に対してとった,最後の仕上げがISO9000ともいえる。

 日本企業ももともと品質確保はできているのだから,ISOをとろうとすれば,1〜2年で簡単にとれてしまうから,認証を受ける企業が後をたたない。

 と,ここまでの話だったら,何の問題も起きないのだが,問題は,現在の高品質を支えた人たちが高齢で退職してしまったあとにおきる。品質を人間が支えた時代からシステムが支える時代に移る訳である。それを最新の経営と信じる人たちが大勢を占めるようになると,マニュアルさえ守ればよいのだという価値観が蔓延する。その時に,日本企業も外国の企業並の品質と生産性の会社に成り下がるわけである。それには,能力主義,業績主義というおまけまでついて,もし,報酬をもっとほしければ業績を上げなさい,と尻をたたかれる。いままでの日本でもっと金がほしくてがんばった人はどれだけいただろうか。ほしくないといえばうそになるが,業績をあげた人のほとんどは,金というよりは,自分の人生をかけてより高いものを求め,家庭をも顧みないほどがんばったからではないだろうか。それを,働いた分だけ報酬はやるけれど,会社の儲けは従業員に分け与えるのではなく,資本家に配当するべきものという時代になるわけである。これでは奴隷ではないだろうか。たくさん綿花を摘めばその分収入も増えるが,その綿花が高く売れて儲かった場合は,すべて資本家のものだとするのと全く同じである。

 何度もいうようだが,日本がこれだけ経済成長できたのは,滅私奉公的に工夫改善を現場で重ねてきた結果である。この日本的なやりかたのすべてがいま否定されようとしている。時代がマニュアル時代だから仕方ないという人もいるが,マクドナルドの例でもわかるように,最初2〜3ページであったマニュアルは,現在1万ページを超えるという。

確かに,それをしっかり守ればよいだろうが,それを完全に守ろうとすればするほど,非効率になり,生産性は低下することが目に見えている。ISO9000はそういった危険性を含んでいる。今までの日本企業はそれがなくても高品質が確保できていたのは,マニュアルがなすべきことを人間がやっていたということであろう。人間がやるからミスが起きやすいと,原子力などの巨大技術ではよくいわれるが,人間がやるからより高度なものが生まれることも確かである。ミスがあったら重大な事故のおそれがあるものは,機械化したり二重化したりすればよいだけで,マニュアルでしばったからといって品質を維持できる保証はほんとはないのである。1万ページものマニュアルを暗記して行動できるなどとだれが信じられようか。

 結論を急ごう。高品質を産み出すシステムはマニュアルによってではなく,人間の工夫改善や,責任感に裏付けられた滅私奉公的な人間の総合力に支えられているということだ。たかだかマニュアルに定めることができるのは,マクドナルドでいえば,2〜3ページに書ける程度のもので,そんなものは学生アルバイトに雇い入れの際に教育する基本的事項にすぎない。後のほとんどは従業員が自分の持っている能力すべてを駆使して,工夫改善してゆくべきものだ。その結果高品質なものがプロダクトアウトできたとしたら,それこそが企業の力であり,それは文化といってもよいほどのものだ。マニュアルに記載できる程度のものをとてもじゃないが,文化というわけにはいかない。

 最近,トヨタの生産システムを研究しているアメリカの経営学者が,トヨタのカンバン方式などのシステムを学んでも決して,トヨタの生産性に追いつくことができないという意味の本を出したところ,全米の注目を浴びているという。その結論は,生産システムは単なる手法ではなく文化というレベルであり,その文化を身に付けない限り手法を学んでも無意味であり,だからといって,その文化を身に付けることも不可能なことと結んでいるという。ただし,カンバン方式などのシステムを真似るだけでも大いに効果があったということである。

 こんな話を聞くにつけ,いつか,トヨタがアメリカの堪忍袋の緒を切らしめないか心配で仕方ない。7兆円どころか,誤爆と称して名古屋のトヨタの主要工場がミサイル攻撃されないともかぎらない。

 そういえば,日経連会長のトヨタの社長は,「社員をリストラような経営者は去れ」という発言を折りにふれしているただ一人の経営者である。日本的経営が勝ち残るか,グローバリズムが日本の本丸を攻略できるかの,最終戦争といってもよい。