虚と実
たとえば絵画において、写実画か抽象画のどちらが芸術性が高いかという話になったとき、写真のように正確に描かれた絵が芸術性が高いと評価されることはあまりない。しかし、抽象画の代表として知られる、ピカソやマチスも、若き駆け出しのころは、写真のような精密な写実画を描いていたことを、私は知っている。彼らとしては、精密な写実画を描いているうちにそれでは物足りなくなって、次第に心の赴くままに、抽象画へとのめり込んで行ったのだと推察する。その心の心象風景のなかに、芸術性を感じ取っていたのであろう。
ピカソやマチスのような巨匠でなくても、私の亡妻(女子美術大学で油絵を学んだ)であっても、写実画について、質問したことがあったが、その答えは、写実画を描こうと思えば描けるが、描いているうちに、気持ちが悪くなるということであった。写実画はたとえば、お遊びで、色鉛筆で一万円札を描くと、あまりのリアルさに会社で有名になり、また描いてくれとせがまれて困ったという話を聞いた。つまり、自分が描きたいものは、写実画では心が満たされないばかりか、気分が悪くなるほどちがうということであろう。
しかし、心から描きたいものを描くには、精密な写実画を描く技量、いやそれ以上の技量を必要だということだろう。
わたしは、子供のころから、絵が苦手で、絵が上手い人を無条件で尊敬してしまうところがあり、妻を娶ったのもそれが、大いに影響している。
一度、妻に質問したことがある。絵が上手くなるには、どうしたらよいのか、に対して、答えは、“お父さんは、うまく描こうとするからだめ、自由に思った通りに描けば良い”とのことであった。冗談ではない。心は写実画を描こうとして、色を使えば使うほど、写実から遠ざかってしまう。全く話にならない。まず、写実画を描ける技量を身につけなければならないということだろう。歌にしても、音階通りに正しく歌えるようになって、その先に音楽表現があることと同じであろう。
小説にしても、全くの架空の物語か、実際の社会に起こりそうな内容か、どちらが高い評価が得られるかも、絵と似ているようである。
世界文学で最も人気が高いのは、ダンテの「神曲」で、二位がゲーテの「ファウスト」だという。どちらも、地獄、天国を旅する架空の一大叙事詩である。
私も、残り人生も少なくなってきたので、世界一人気の高い文学くらいは、冥土のみやげに読んでおこうと思い読んでみたが、いや、苦痛以外の何物でもなかった。
大学時代に、友が、卒論で、「太宰 治」を選んだということで、それにつられていくつか読んでみたが、「斜陽」や「走れメロス」などの有名な作品より、幼少時代を綴った「思い出」が一番おもしろかったのを覚えている。趣向を凝らした技巧的創作では、創作の意図をくみ取ろうとしてしまうが、現実に起きた事象では、なざ、それが起きたのかを考えさせられる違いがあるようだ。
しかし、架空の小説でも、文句なしに引き込まれてしまうこともある。たとえば、谷崎 潤一カの「春琴抄」の佐助が最後に自分の目をついて、師匠と同じ盲目になるという結末は、架空の極致なはずなのに、おもしろくしようとして、ずいぶん架空な創作をしたものだ、と退けることができない。
その谷崎 潤一カは、リアルな世界には、全く興味がわかないと、どこかで書いていたものを読んだことがある。わたしと逆である。
わたしは、たとえば、茶々が秀吉の側室になったということは、事実であるが、これが、もし小説であったとしたら、おもしろくしようとして、そういうことにしただろうが、そんなことは、あるはずがないと、作者を軽蔑してしまうような気がする。しかし、歴史上事実である。そうすると、その茶々の気持ちはどうであったろうかとか、秀吉の気持ちもいろいろ詮索しとどまることはない。「本能寺の変」とか、「千 利休の切腹」とか、小説だとしたら、一読して終わるものが、それに関連する本はどんなに読んでも興味が尽きることがない。
架空の小説として、「ハリーポッター」がやたら人気であるが。映画でも見たが、全く興味がわかない。「アバター」も同じ。
このたび、「としま園」が廃止になり、新たに「ハリーポッター」のテーマ館に生まれ変わる計画があるそうであるが、信じられない。娯楽性は、ディズニーランドが限度であるような気がしてならない。