少女虐待死事件
小学四年生の少女が父親の虐待により死亡するという事件があった。この事件前にも、目黒区で、五歳の女の子が、まだ習ってもいないひらがなの文字で親に許しをこう文をつづりながらも、死亡するという痛ましい事件が報じられ、大きな社会問題となった。
これらの事件がたまたま報じられたから明らかになったのか、他にも起きている最近の社会現象の傾向であるかどうかは分からない。
しかし、どんなに少ない、まれな事件であるとしても、このような事件が起き得るということが、どうしても理解できない。
人間社会には、窃盗、詐欺、傷害、殺人、誘拐、性的暴行などあらゆる犯罪には、それなりの犯罪目的があり、犯罪であることを承知していながらも、やむにやまれず起こしてしまうものであろう。だから人間はそれらの犯罪に対し、刑法をもって抑止しようとした。それでもこの人間社会では、抑止できていないのが現状である。それほど、人間には法を犯してまで、やむにやまれず起こしてしまう業を背負っているのであろう。
ところが、今回のような少女虐待は、どんな目的があって起こしたのか、どう考えても分からない。虐待した父親は、しつけのためだと証言しているようだが、しつけでこれほどの虐待することは、想像することさえもできない。すべての犯罪はそれなりに犯意を想像するに難くない。殺人でさえ、殺したいほど憎かったのだろうと想像できるし、秋葉原無差別殺人事件でさえ、人生に嫌気がさし、虚無に陥り、自暴自棄になり、誰でもいいから殺してみたかったという理不尽さえ、人間の行動として想像できないことではない。
内縁の妻の連れ子というのなら、虐待するのもそれほど難しいことではないが、今回は、実の父親だというから、しつけのためとは、言い逃れで何らかの強い欲求に駆られての行為でなければ、説明がつかない。サド、マゾの関係も考えられるが、これらには性的な裏があるので、これではないことは明らかであろう。
親子の愛憎のなかに、どんなに歪んでいたとしても、今回のような虐待があり得ることのようには思われないのだ。それが解明されない限り、再発は抑止できないと思う。