文学的感傷
実生活の中で、文学的感傷を味わうことは、なかなか難しいような気がする。
小説の中だったら、殺人や心中も、間接的ながら体験出来るため、非日常的な感傷を覚えることもできようが、実生活では、身内の死以上の感傷はめったに経験できない。
実際、心から泣いたのは、親を亡くした時くらいだろうか。
喜怒哀楽というが、そのなかで、哀は、実生活ではあまりに少ないような気がする。
しかし、人間の情感のなかで、もっとも人間らしい感傷は、哀ではないだろうか。
それ故か、人間は文学のなかにそれを求めているのかもしれない。
たとえば、心中なんて実生活では経験しようもないが、たとえ、小説の中といえども、間接体験により、深く引き込まれてしまう。愛する二人故に、死を選択せざるを得ない心情は、悲しいけれど、それほど相手を好きになることは、一方で、うらやましい限りだ。
実生活では得られないこのような哀感を人は、文学、芸術のなかに求めるのかも知れない。
谷崎潤一郎の「春琴抄」の中で、丁稚の佐助が、盲目の三味線奏者の春琴に恋い慕うあまり、自分の目を針で突き刺してしまう話であるが、どんなに作り話だと割り切ろうにとしても、深く心に響くものがある。虚構の世界しか興味がないと言っていた谷崎潤一郎の面目役如といったところだろうか。
ところが、そのような感傷を求めて、せめて芥川賞受賞作くらいはと思い、毎回読んでいるが、深い感傷を覚えた作品にお目にかかったことがない。さらに言うなら、そんなにも長文を用いて、何を伝えようとしているのか全く理解できない。
私が文章を書くときには、どうしても伝えなければならないことがあり、それをどのように表現したらわかりやすいのか、そればかりを考えて書いている。
文学の中に感傷を求めることは、やがて実生活の中にこそ感傷を求めるようになってゆくようです。
過去に、それを如実に実践した有名人は、三島由紀夫ではないだろうか。氏は生前、自作自演の映画「切腹」を発表し、人間の究極の美を切腹の中に見いだし、それを実践したとわたしは理解している。
しかし、我々凡人は、そんな究極の美というよりは、日常の一見平凡な生活の中にも、身内の死を悲しみ、季節の移ろいの中に自然とともに生きる喜びを見いだしたり、離れて暮らす子供の安否を心配しながら日々暮らしている。そんな日常のある日突然、久しぶりに子供から電話があり、しかも、会社の重要なお金が入った鞄を、電車に置き忘れてしまい、至急、その返済のために現金が必要だから、何とか助けて欲しいと言われたら、どんな親も、できるだけのことはしてあげようと思ってしまうのはやむを得ない。
この瞬間、平凡な日常にうんざりしていた人も、突如深刻ドラマの主人公になってしまう。そして、振り込め詐欺ではないかと注意を促す銀行員にウソを言ってまでして、大金を引き出して犯人に引き渡してしまう。
たしかに騙したことは犯罪に相当するが、脅迫によって大金を奪い取ったのではなく、あくまでも本人の強い意思でお金を渡したことにまちがいない。それが、たまたま、実の子供ではなかったということである。
それがもし、実の子供ではなく、親戚だったら、あるいは、かわいそうな見ず知らずの他人であったら、あるいは、他国の貧しい子供だったら、どうするだろうか。
さらに、それが小説だったら、あるいは、夢のなかだったらどうするだろうか。
いずれも、たぶん大金を差し出すことはないだろう。
ということは、大金を差し出すという行動をとった裏には、子供に対する深い愛情に導かれての行為であったことは疑いがない。子供に対する深い愛情を実感しつつ、それに報いるせい一杯の行為も実践できたことは、実生活のなかでめったに感じることができない感傷であったことだろう。
三島由紀夫は「切腹」を美化したため、死を選ばずを得なかったが、子供のために何とかしてやりたいという感傷は、お金は失ったものの、それは本人の強い意志であったから、十分達せられたといことになる。しかも、それがウソであることまで明らかになったことをおもえば、二重の喜びであるはずである。
人生は一炊の夢にも例えられるように、人生の壮大な栄枯盛衰を体験したが、本当は、ご飯を炊く間に居眠りをしてしまった間の夢でしかなかったという話である。
また、落語「芝浜」では、ある大酒飲みの男が、ある日、大金を拾ったといってご近所を集めて大判振る舞いをしたものの、翌朝、大金を拾ったなんて夢でもみたのか、と女房に責められ、せっせと働いて借金をかえしたばかりか、身上も増え生活も安定したある日、あれは本当だったと打ち明けられ、女房に感謝するとともに、祝杯をあげようとするも、また、夢になってしまうといけないからからやめとこうという、オチがつく話である。
以上の2話は、人生とはどういうものか、深く考えさせられる。
人生を生きる意味は、夢であろうが、現であろうが、あるいは文学であろうが、そのなかに感傷(ロマンと言ってもよいかもしれない)を見いだして行くことであるということを、最近強く思うようになり、このような文章を書いてみた。
ところが、いざ自分の実生活を振り返って見れば、あまりに実務的でロマンのかけらもないことに気がつく。たとえば、還付金詐欺ということばが、まだ人口に膾炙していないころ、還付金があるからすぐ近所のATMに行くようにとの電話があったときにも、その還付金はどのようなもので、何故還付されるのかを問いかけると、最後に返答に困り、電話を切られてしまった。
また、倅を名乗って、携帯電話の番号が変わったと言う、声が違うと言うと、風邪をひいたという、あまりのことに、それでは振り込め詐欺そのものではないかというと、電話は一方的に切られてしまった。自分だけはそんな詐欺にはひっかからないと思っている人ほど危ないと言われるけれど、人間として当たり前の対応をしていれば、振り込め詐欺など成立するはずがないと思うのだが、一方で、余りに合理的判断が先行してしまい、詐欺には遭わないにしても、日頃から、文学的感傷を感じる心の温かさに欠けるのかもしれないとも思う今日この頃だ。
困っている我が子を、どんなことをしても助けてやろうというような親心にもかけているかもしれない。自分としては、このような冷静な自分より、結果的詐欺であっても、なりふり構わず子供を助けようとする親の方に、より人間的魅力を覚える。だからといって詐欺に目をつぶるということも、現実では考えられない。
日常生活の中で、文学的感傷を感じながら生きることは、冷静な合理的判断との兼ね合いでなかなか難しい。たとえば「ゆめぞの」での野菜作りにしても、ただただ、おいしい物を作りたい一心から、経済性など全く関係なくやってしまうが、それを他人は、「池田さん、それでは買った方がやすくなってしまうよ」と注意してくれるが、もとより、家計費節減のために菜園をやっているわけではない。このように、すべてが合理的判断で行動しているわけではないが、合理的で冷静な判断は、文学的感傷と相容れない要素が多いことも確かなことだ。