マッコウクジラ座礁の顛末
静岡県の遠州灘海岸でマッコウクジラが座礁して、それを救済するため、大勢の作業員やパワーショベルまで動員したものの、その努力も甲斐なく、クジラは死んでしまったというニュースが、大きく報じられた。
この話題がなぜニュースなのかは、海の主ともいえるクジラが座礁したという珍しさと、それを救出しようとした地元の人たちの優しさ故であろうと思っていた。これがもし、湾内に迷い込んだクジラを、地元漁師が総出で捕まえて、解体してその肉をみんなで分け合ってしまっていたら、それは、きわめて日常的でニュースにもならず、明るい話題として地方紙に載る程度であったことだろう。
本来なら、捕まえて食べてしまうところを、救出しようとしたことが異例でニュース性があったはずである。したがって、死んでしまったなら仕方ないから、解体してみんなで分け合って食べるのが、至極当たり前と思っていたところ、じつは、そうではなく、近くに埋められたとのこと。なんともったいないことをするのだろう。たしかに座礁したクジラはかわいそうなできごとではあるが、死んでしまったならば、喜んで食べさせてもらうことが、クジラに対しても供養になるのではないだろうか。クジラを捕って食べる文化が日本にないならば、それは野蛮なことかもしれないが、日本は昔からの捕鯨先進国であったはずである。
そんな疑問を思っていたところ、その顛末がある週刊誌に載っていた。マスコミの各記者から、「まさか食用に回ることはないでしょうね」との質問が相次いで、処置に迷った役場では農水省に電話で判断を仰いだところ、「基本的には、埋めるなり焼くなりしてくれ」ということだったという。ことなかれ主義もはなはだしい。貴重な水産資源を廃棄せよとは、監督官庁の判断とも思えない。世が世ならば、悪代官のつれない命令に一揆が起きてもおかしくない。
ところが、何の騒ぎも報じられなかったということは、埋設処理したことにはなっているが、実際には、みんなで分け合って、地元ではしばらくの間は毎日たっぷりクジラ肉を賞味したのであろう。どうかそうであってほしいと願わずにはいられない。
今回のクジラの顛末で、「まさか食用に回るということはないでしょうね」という価値観があたかも正義であるかのようなマスコミ姿勢に、なにか危険なにおいを感じるのは私だけだろうか。戦時中に竹槍訓練に出ない人を国賊呼ばわりした風潮に通じるものがある。最近では、石原都知事の「三国人」発言を糾弾する
マスコミ姿勢も同様である。そのときの、記者の質問に、「都知事を辞任するつもりはないのですか」というのがあった。まさに、今回の「まさか食用に回すということはないでしょうね」と根は同じであろう。
ある調査によると、日本近海のクジラにより捕食される水産資源は、日本の漁獲量の3割にも及び、全世界では漁獲量の6倍にあたるという。放っておくと、海はクジラ天国になってしまうことになりかねない。座礁するクジラが増えてきたことは、海は広いとはいいながら、収容能力を超えているのかもしれない。