80歳の壁
先日テレビの番組で「80歳の壁」という本が最近話題に上っているとの特集番組を見た。
人間は加齢に伴い、いずれ寿命を迎えるが、その前に、ほとんどの人が80歳ころには何らかの心身の異常が発生するので、何とかその80歳の壁を健康で乗り越えるにはどうしたら良いかを、和田秀樹という長く高齢者医療に携わった医師が説いた著作であった。
内容は、ほぼ想定通りで、何事もあまりこだわりなく、好きなものを食べ、好きなことをし、好きな人たちとの交流を楽しみ、自然に生きてゆくことだという。
部長に昇進しなくても、ゴルフコンペで優勝しなくても、議員に当選しなくてもよいから、そんなにがんばらなくてもよいと言われても当たり前である。
ストレスのない生活をしなさいということであろうが、人間、些細なことでストレスを感じるもので、私の例でいえば、楽しみでやっているはずの家庭菜園で、雑草が生い茂り、野菜が存在の危機に遭っていても、気力、体力の衰えで、なんとも対処ができないと、それはそれはストレスを感じるし、好きでやっているギターサークルで、難しい演奏に手こづることもそれもまたストレスで、そんなにストレスならやめてしまえばと言われるが、それは好きなことをやめてしまえということにつながる。
最近、太極拳を始めたが、なんとしても片足立ちができずにふらついてしまう。皆さんは、女性でもきちんと静止して、見事な片足立ちぶりである。練習を重ねればとも思うが、何分来年は80歳である。60の手習いならともかく、80の手習いは年齢との戦いである。
人と比べずに、自分としてできる範囲でと言っても、できる範囲では、ストレスそのもので、それを克服した時に初めて、ストレスは快感に変わることが実態だ。それはそれなりの苦痛を伴うものであることを覚悟しなければならない。
人によっては、今回の安部元総理狙撃事件の犯人のように、家庭を破壊した教団に通じる有名人を殺害することこそを目標に努力を重ねるという事例もあるほど、人様々なのだ。
それが達成できて、おそらく、無上の達成感につつまれているはずだ。
また、ロシアのプーチン大統領は、ピョートル大帝のように、偉大なソ連の復活を夢見て、特別軍事作戦を決断したはずだ。それにより、世界から敵視されて、暗殺の恐怖というこれ以上ないストレスと日々闘っているはずだ。
このように、人はだれでも、こうありたいという自分と現実のギャップに悩み、そのストレスから逃れることはできない。それが年齢、立場にかかわらず生きているということなのだ。そして、これらがなくなるということは、人間として生きることを放棄した、すなわちフレイル状態と言える。
たとえフレイル状態でなくても、すべての希望を失うと、生きる意味を見いだせずに死を願う人もいる。橋田 須賀子氏は生前、尊厳死を願っていたし、評論家、西部 邁氏のように自裁死と名付けて自らの死を決行した人もいる。
80歳の壁を来年に控えたわたしとしては、身体的不具合は、30代で、痔疾を40代で鼻茸を手術で完治し、50〜70代で脊柱管狭窄症を独自の体操で、70代で花粉症を食生活の改善でそれぞれ乗り越えて、現在は何の身体的不具合を感じない。毎日の生活は、独居老人なので何の不自由もないかわり、いくつかの趣味も特別たのしくてやっているわけではないので、何をやっても苦痛ばかりが多い。だけどやめないのは、おいしいものを食べ、一杯やるためだけを楽しみだけに生きているような気がする。そういえば、すべての生き物は毎日食べて眠るだけの生活をしている。単なる生き物に戻ってしまったということか。