鬼退治

 

 子供の頃、桃太郎の童話の話を聞く度に、鬼ヶ島で鬼達が、財宝一杯を持ち豊かに暮らしていたところに、桃太郎が犬やキジを従えてやってきて、武力で征服され、財宝もすべて奪われてしまった。鬼だって、奥さん子供に囲まれ」幸せに暮らしているところへ、ある日突然、鬼退治と称して桃太郎一味がやってきたということだろう。

 鬼は、角はえており、顔は赤だったり、青だったりで、人間と比べると余りに異常で、退治されて当然という風貌であったと推定される。だけど、人間に何の悪事も働いていないのに、見た目が悪いと言うだけで、退治されるのは、鬼としても何とも割り切れないことであったろうと同情していた記憶がある。

 しかし、長ずるにしたがい、いろんな民話に登場する鬼は、見た目は角が生えていたり、青かったり赤かったりは同じであるが、村長の愛娘を要求したり、無理難題を要求する鬼が数多く語られ、単に鬼ヶ島で平和に暮らしているのではなく、人間社会に不当な要求を突きつける存在として登場する民話が多く、退治しなければならないという、村人の気持ちも理解できる話も多かった。

 しかし、鬼ではなくても、誰でも村長の愛娘の、愛らしさには心惹かれ、何とか我がものにしたいというのは、当たり前であることから、人間の心の中にひそむ身の程知らずの欲求を、鬼になすりつけていたのかも知れない。その欲求が、大名や王子様ならともかく、鬼の分際であったことが、退治されなければならない運命を背負ってしまったということであろう。

 このように、誰の心の中にも潜む密かな、身の程知らずの欲求を、鬼の仕業として、社会から退治して葬り去りたいという願いが込められているように思う。

 ところが、人間の心の中に潜む密かな欲求ならともかく、現代の鬼達は、角は生えていないものの、一様に布で顔を覆って、尊重の愛娘ではなく、村の民衆全員を人質にして、少しでも反抗しようものなら、直ちに首をかききり殺害する。亡国のサッカー試合のテレビを見たとして、200人もの子供をその場で射殺した。

 人心のこころの底に潜む密かな身の程知らずの欲求を鬼の仕業として、退治してきた人間の知恵は、現代の鬼の前では余りに無力だ。

 折しも、思想信条の自由を確保するためには、テロ等準備法案は、民衆を監視することにつながりかねないということで、強硬な反対を繰り広げる人達は、このような、現代の鬼達の思想信条も保証されるべきだというのだろうか。

 ISがそもそも力を得たのは、イラクのモスルに進駐した際、イラク国軍が、武器を放棄して退散したことが発端である。

 これをそのまま、日本に当てはめると、ある日突然ISが日本に、ユートピアを建設しようと侵攻したとき、国際紛争解決のために武力行使は、憲法に反するとして、放置したら、モスルの二の舞になることは、明々白々である。

 安保法制にせよ、テロ等準備法案にせよ、ISのような現代の鬼を念頭に議論しないことが不思議で成らない。善良なる一般市民が監視されることを避けるためには、ISの浸入もやむを得ないというように聞こえる。