安保法制と憲法

 

 今、国会で安保法制の議論が続いているが、集団的自衛権が憲法9条で否定されている軍事力行使にあたるとして、反対派は主張し、憲法学者の意見も、歴代の内閣法制局長経験者も同意見であるようだ。

 それに対し、管官房長官は、中にはそうでない意見の学者もいるとか、個人の意見でしかないとか、反論をしている。

 しかし、自衛権には本来個別も集団もないはずであるが、国連憲章51条に、すべての国は個別的、集団的自衛権が認められると、あるために議論を呼ぶことになる。そして、歴代政権が、集団的自衛権はあるが、行使はできないとしてきたために、ここで改めて議論になっている。権利はあっても行使はできないとは、いかにも苦しい解釈である。

 そんな苦しい解釈を生んだ理由は、自衛隊を憲法9条で否定している軍事力の保持ではなく、最低限自国防衛のための手段であり、憲法違反ではないと解釈しているためであろう。

 憲法9条では、国際紛争を解決する手段としての武力は永遠にこれを放棄する、とある。

 これは外国が武力で攻め込んできても、武力で対抗するのではなく、外交努力で解決せよということを意味している。攻め込んでこないまでも、この条件を受け入れなければ、武力攻撃をすると脅されれば、受け入れざるを得ないことを意味している。

 これはいくら何でも受け入れられないとして、国家存立危機の際は自衛権を行使を決めたのがこれまでの政権であったが、近年の世界情勢は、一国のみで自衛することは困難な状況を見極めて、これまで権利はあるが、行使はできないという解釈であった集団的自衛権もみとめようというのが、安保法制の根幹であろう。

 これに対し、地球の裏側まで戦争にゆくのかとか、アメリカの戦争に巻き込まれるとか、自衛隊のリスクが高まるとか、徴兵制につながるとかの反対意見がだされている。

 しかし、これらはすべて「もう、戦争はこりごり」という発想からでており、国民の大多数も「軍靴の音が聞こえる」とかの不安の声も多い。

 すべてもっともな声である。そのこりごりな戦争を回避するために、国家存亡の危機のときにはどのように対処するかを決めておこうというのが、現政権の目的であろう。事実、安倍首相も繰り返し説明している。反対理由を憲法9条違反に置くために、とうとう「砂川事件」判例まで持ち出した。自衛のためアメリカ軍基地を国内にもつことは憲法には違反しないという、最高裁判決である。

 一貫して自衛隊は憲法違反だとする社民党は、武力を持っているから紛争が起きる、武力がなければそもそも紛争は起きないか、あるいは起きたとしても話し合いで解決せよ。そして、戦後平和が続いたのは、武力放棄を謡った憲法9条のおかげと主張してはばからない。そして、あの北朝鮮に対し、党として親交を重ね、拉致さえ否定し続けてきた。

 これは極端な例であるが、政権与党でなければ、こんな主張を展開しても、一定の世論の支持があるのが現状である。責任を持たない主張は本来そういうものであろう。

 民主党も一時責任与党を務めたことがあった。あまりのお粗末な政権運営にコリゴリした反動が、現政権の今につながるといっても過言ではあるまい。

 尖閣諸島の中国船体当たり事件とか、韓国大統領の竹島上陸とか、ロシアメドベージェフ大統領の北方領土訪問とか、外国は隙あらばつけ込んでくる。

 それに対し、クリントン国務長官の、尖閣諸島は日米安全保障条約対象であるとの発言に助けられた面があるが、その後の赤珊瑚密漁船200隻以上など、このまま沈静化する様子はない。事実中国は「魚釣り島は中国の核心的利益」とし、軍事力をもってしても確保すると明言している。これに対し、アメリカは領土問題は当事者間でと、他人事である。

 いざというときに守ってくれない相手にいくら条約とは言え、アメリカが本気で守ってくれる保証はない。まして、自国は憲法9条で否定されているといい、自国の軍隊は知らん顔で、アメリカの兵隊が命をかけて、尖閣諸島を守ってくれるはずがない。

 さらにいえば、イスラム国の無法な武力集団が、日本にユートピア建設を求め攻め入ってきた場合、あるいはその兆候を発見したとき、手をこまねいていて良いのだろうか。

 社民党だったら、良く説得してあきらめてもらうしかないというであろうが、政権与党は自国民の生命、財産を守る義務がある。そのとき、自衛隊のリスクが高まるかどうかなど、国会で議論している場合ではない。そんなリスクが起きないようにするために、事前に対応策を決めておくべきだろう。

 憲法違反かどうかは、字面だけとらえて議論していても仕方がない。現に自衛隊が存在する以上は、違憲論争は無益である。民主党も憲法を盾にとって反対する戦法は、何でも反対政党の印象を国民に与えてしまう。

 いざというときどうするかということを真摯に議論してもらいたい。

 憲法なんて必要ならば改定すればよい。改定しなくても解釈で済むなら、それでもかまわない。要はいざというときどうするかだけである。