四苦八苦

 

 人生が思い通りに行かない様をよく「四苦八苦」という表現が用いられるが、そもそもは仏教用語で、四苦とは、生、老、病、死を意味し、人生そのものであり、それは4つの基本的な苦しみで成り立っているとしている。しかし、これは生物ならはえやゴキブリにも当てはまるもので、人間特有なものとしてさらに下記の4つを加えて「四苦八苦」とよばれている。

 愛別離苦(あいべつりく)  愛する人と別れる苦しみ

 怨憎会苦(おんぞうえく)  いやな人とも会わなければならない苦しみ

 求不得苦(ぐふとくく)   求めるものが得られない苦しみ

 五蘊盛苦(ごおんじょうく) 五蘊(人間の精神と肉体)が思い通りにならない苦しみ

このように人生というものはそもそも苦しみから逃れることができないことになっているのである。

 仕方ないから、人間は来世で幸せになるしかないとして、仏教が発展したのであろうと思われる。そして、現世でひたすら修行したり徳を積むことで、幸福感を味わっていたのであろう。しかしそんなことが可能なのは、一部の貴族や僧侶でしかなく、一般庶民は生きることが瀬一杯でそんな余裕はなかった。ところが、親鸞が初めて、いわゆる「悪人正機説」で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」として、だれでも来世ですくわれることを教えた。悪人の方が救われやすいとしているのである。ちなみに、悪人とは、貧しさ病などで苦しんでいる一般庶民をさしており善悪の悪ではない。

 今から考えてもなるほどと思うのは、日常で満ち足りている人より、苦しんでいる人の方が救われやすいのは当然である。

 救われるということは結局、人生に希望が持てるかどうかにかかっているような気がする。人間はどうも希望を持つということが難しいようにできているような気がする。

 ギリシア神話のパンドラの箱にも出てくるように、天上の神ゼウスが地上に送ったパンドラが、決して開けてはならないとされた箱を開けてしまった結果、すべての人間社会の災いが飛び出したが、あわてて閉めた結果、希望だけは箱に残ってしまったとされている。

 このように、希望はそもそも人間社会にはないものだが、存在していることだけは確かであることを示している。それは丁度未来は不確定ではあるが、確実に存在することも意味しているようである。たとえば、宝くじは当たるかどうか分からないが、わずかの希望があるから購入するのと似ている。

 ところが災いというものはすべて結果として存在する。戦争や原発事故のような人類最大の災いも結果として厳然として存在する。

 そんな災いから逃れるため人間は必死に祈りを捧げる。ところが災いというものは、祈りを捧げることで事前予防できる保証はない。その様子を「旧約聖書」の「ヨブ記」のなかで、信心深いヨブが家族を失ったり、病に犯されたり、盗賊に襲われたりありとあらゆる災いにあい、あまりの災難に神に何故このような目に遭うのか、問うシーンがでてくる。すると、とうとう神が現れて、お前は全能の神でもないのになぜ、そのような災いを予防できるのかとしかりつける場面が描かれている。これも災いとは単なる結果でしかなく制御できるものではないことを意味している。

 それでも人間は祈る。そこには制御はできないが希望だけは存在することだけは真実であるからだ。その希望というやつがなかなか人間は持てないのは、ヨブのように、結果にしか過ぎない災いを取り除くことに希望を見いだそうとするからにちがいない。

 高血圧、高コレステロール、肝臓や心臓疾患、果ては高齢化まで災いととらえてしまっていないだろうか。これらは「四苦八苦」としてすべて受け入れて、その上で何に希望を見いだすかにかかっている。「四苦八苦」さえ受け入れてしまえば、極端にいえば、それ以外はすべて希望が見いだせることになる。

 たとえば、余命一年を告げられた少年は、まるで天使のようになるという例を聴いたことがある。朝目覚めると、今日一日生きられる喜びから、感謝すると共に、寸分も惜しまない有意義な時間を持とうとするようである。「愛と死を見つめて」のミコも同じ心境であったことが容易に想像できる。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」である。

 ところがかなしいかな、余命は不明のため、人間は隠されている希望に気がつくことなく、ひたすら災いのみにとらわれて、「ユメもチボーもない」と嘆くことになる。

 本来なら昨日のように新しい朝を迎えることはこの上ない喜びのはずなのに、そして、昔高価でめったに食べられなかった卵かけご飯が食べられるなんて、ユメのような話なのだが。