二月四日は道祖神祭り

 

 「にがつよ〜かは道祖神ま〜つり 子供よろこび大ま〜つり 甘茶呑みにこ〜よ♪」

 これは、私の生まれ故郷の信州上田の在の農村での、毎年2月8日に近い土日に行われる、男の子供が主体の「道祖神まつり」で、子供達が、太鼓を叩きながら、部落の中を練り歩くときに謡う歌である。

 この歌の最後の「甘茶呑みにこ〜よ♪」のところを、ときどき「お賽銭持ってこ〜よ♪」と入れるのも忘れない。子供達にとって、本当はお賽銭が目当てなのだが、それを言うのはあまりにえげつないことも重々知っているため、ごく控えめに、しっかりと伝えることの大切さも知っていたものだ。そして、そんな道祖神祭りは親の世代、祖父の世代いや、何百年と受け継がれた行事であったはずである。

 そんな道祖神祭りが、私が小学6年生の時に、学校の指導で改革されることになった。一つに、それまで中学2年生以下の男の学徒の祭りだったのだが、小学生だけの祭りとなること、二つに、女の子も仲間に加えることだった。しかし、強制ではなくあくまでも子供の自主性に任せるということだったので、わたしの部落では、小学生だけの祭りとすることは、受けいれたものの、女の子を加えることは断固拒否した。なぜならば、最上級生は当時「頭領」とよばれ、子供達の間では絶対権力を有していたあこがれであり、いつか「頭領」になることを夢見てひたすら、上級生の命令に従っていた事情があり、それがある日突然その「頭領」が実現するわけであるから、拒否する理由はない。しかし、女の子を加えることは、それまでの、「頭領」をトップとするヒエラルヒーが崩壊し、単なる「子供会」になってしまう危機感を感じたからである。

 当時、この道祖神祭りを実行する子供達の活動は、道祖神祭りの実行にとどまらず、年間を通じての遊び全般におよび、夏休みには、水泳や魚取り、その他一般の休日には、部落内のお寺の庭で野球その他の遊び、雨の日には寺の本堂の畳の部屋で柔道など、冬休みには、1月15日に行われる「ドンドン焼き」の準備と実施。

 それらすべてを取り仕切るのが「この「頭領」であり、下級生はこの「頭領」には絶対服従であると共に、水泳や野球、柔道、相撲、魚取りなどあらゆる遊びを教えられ鍛えられたものであった。

 小学生から見ると、中学2年生というのは大人であり、到底一緒に遊べるものではなかったはずであるが、上級生が命令や指示ばかりではなく、面倒を見るという伝統もあったような気がする。

 たとえば、道祖神祭りの打ち上げは、当番の家で食事会が行われるのであるが、私が小学低学年であったころ、この食事会で出された豆腐汁に大きなネギの切り身が入っており、どうしてもそれが食べられないでいると、となりでそれを見かねた兄は、私の椀を取ると、一気にそのネギを呑み込んでしまった。兄もネギが大嫌いであったので、大いに驚くと共に、感謝したものであった。これについて最近80歳になる長兄に思い出として話したところ、長兄も子供時代にその兄に対して同じことをしたことがあることを知った。それは言ってみれば伝統であったということであろう。ことほど左様に下級生は上級生にしてもらったことを受け継いで、田舎の子供時代が続いてきたのであろう。

 それを、改革として、女の子が加わることですべて消えてしまうような気がしたのである。結局、女の子を加えることを拒否したのは、村中で10以上あった会で私の部落だけであることが後でわかった。

 道祖神祭りを小学生だけで実行できるかどうかは、従来と同じ規模で実行するかどうかにかかっている。たとえば、道祖神の碑の周囲にムシロで囲い、その裏には「頭領室」というコタツまで完備した部屋を促成で作ることは、かなりの知恵と労力や資材を必要であり、中学生くらいがいないと、子供達でそう簡単にできることではない。

 代々の伝統で引き継がれてきたならば、できるかもしれないが、突然小学生だけでといわれても、かなりな困難を伴う。

 しかし、なんとか、例年通りの「道祖神祭り」を実施することができた。その頃は当番の家での打ち上げ会の風習もなくなっていたので、わたしは、近所のおばさんの助けを得て「おでんパーティー」を開き、女の子を加えなかった罪滅ぼしに、女の子も招待した。

 これらの費用はもちろん「お賽銭」と「ドンドン焼き」の燃え残りを薪にして、近所の菓子店に買い取ってもらったお金から捻出した。

 そして、それでも残ったお金は、「頭領」の反省会というか、街まで出かけて、生まれて初めて「中華そば」というものを食べた。その一杯50円の「中華そば」の味は、わたしの生涯の「中華そば」の原点の味となり、その理想の味は今現在も変わらない。その食堂の名前「もみじや」とともに永遠に心に深く刻まれている。現代のラーメンではとてもじゃないが物足りない。

 その後、道祖神祭りがどうなったかは知らない。不思議なことに、私が中学、高校時代も実家にいたはずなのに、道祖神祭りがどのように行われたかの記憶がない。それほど関心を失ったということであろう。

 ドンドン焼きでも、冬になる前に、子供達はその材料の「ネズミバラ」を主体に山に取りに行く。子供の年齢に応じた大きさに束ねて、山から引き下ろす。上級生が大きな束をひくのを尊敬のまなざしで見ていたことを覚えている。今から考えると、山の下草刈りを兼ねていたような気がする。そして、いかに大きなドンドン焼きを作り上げるかが、各部落の競争でもあった。ネズミバラという雑木はとげがあり扱いにくいが、燃やすとパチパチという音とともに激しく燃える性質があるため、ドンドン焼きには欠かせないが、同時に山の木の下草として面倒な存在であったことも想定される。こんな風習も山の維持に一役かっていたことであろう。

 いま、当時の山は実家の裏に存在するが、下草が生い茂り、山に入ることが不可能になっていると聞く。

 おそらくドンドン焼きも、単に松飾りを燃やすだけになってしまっているだろうし、道祖神祭りも道祖神の碑にお参りするだけになってしまっているだろう。

 まして、「頭領」が取り仕切って下級生にいろんな遊びを指導する風習も消えてしまっているだろう。

 昔だったら、イジメなど「頭領」が絶対許さなかったことと思う。

 また、この時期は節分の時期とも重なっており、真冬でありながら春を待つ祭りの意味合いもあったことであろう。零下10度以下にもなる寒空の下での祭りは、焚き火を主体とするある意味火祭りの要素があり、いまでも、焚き火の炎をみると、当時の郷愁が蘇ってくる。そして、道祖神お参りには、ワラで作った馬に供えの餅を背負わせて、それを手作りの車に乗せ、子供にひかせる風習から、初午の祝いも兼ねていたのであろう。

 その頃の節分の夕方には、村中の民家が一斉に豆まきを行うため、「おにわ〜そと」「ふくわ〜うち」の声が村中に響き渡り、恥ずかしいどころか、競い合って声を張り上げたものである。

 そんな節分行事も私が高校生になるころには、すでにかなり少なくなってしまっていた。

それと同時に、声を張り上げることにも恥ずかしさを感じるようになってしまっていた。

 道祖神祭りにしても、節分行事にしても、親の世代、いや祖父の世代以前から続いてきた伝統行事が、わたしが、子供から思春期を迎え、恥ずかしさを認識する時期に合わせるがごとく消え去っていったことは、単なる偶然であろうか。それとも、私を含め村人に行事を継続する責任と勇気がなかったからであろうか。

 何百年続いた伝統行事が途絶えてしまった原因は何だったのか今振り返っても分からない。少なくとも私自身は道祖神祭りの最後の「頭領」は務めたつもりである。60年前の話である。