教育改革

 教育の崩壊は今や国家的重要課題となっている。先の小渕首相の施政方針演説でも大きく取り上げられている。国民教育のレベルの高さは世界に誇っていたはずの日本がこのていたらくである。東南アジア諸国よりも落ちているという記事が新聞紙上でも再三取り上げられている。何故こんなことになってしまったのだろう。

 私は、その原因は受験戦争にあると思う。要するに偏差値すなわち点数さえとれれば良いという価値観が、受験科目以外の科目をないがしろにし、その受験科目も考える時間があるくらいなら、よりたくさん覚えてしまった方が、より点数がとれるということで、ますます考える機会を奪っている。

 受験戦争が激化すればするほど、この傾向に拍車がかかるというパラドックスに陥る。

 思考力とはそもそもなんだろうか。分数の足し算引き算が果たして思考力だろうか。そんなもので思考力を計ることの方がまちがっていないだろうか。

 小説家として活躍している有名作家にぜひ分数の足し算引き算をやってみてもらいたいものだ。要するに関心がないだけなのではなかろうか。

 強い関心があれば必ずや、たちどころにマスターしてしまうことだろう。

 したがって、その強い関心をいかに持ちうるかということが最大の課題ではないだろうか。学ぶということは本来未知なことに触れて、それに対して強い疑問が生まれ、それを解明して行くという過程で成り立っているはずだ。

 文学のように永遠に解明できないものもあるが、それはそれで尽きせぬ関心が起こっているのだろう。

 一時、オタクという言葉が流行ったが、学問や芸術以外のゲームなどの娯楽に対してあるものに限って異常なほど強い関心を示す人たちであった。

 アインシュタインやエジソンだってある種のオタクだったのではないだろうか。 エジソンなぞは、奇妙な質問ばかり教師に投げつけるため、学業についてゆけない劣等児として、退学になったそうである。「窓際のトットちゃん」もたしかそうであった。各階で活躍した有名人で子供時代に落第したという話は枚挙にいとまがない。

 そのオタクになるほど関心を持つようなものが見つけられないか、それとも受験勉強に時間がとられてしまって、他のものに関心を持つ暇がないかどちらかであろう。

 もし前者であったとすると、学問として設定されている科目に問題があるということだ。ニュートンやガリレオ、ファラデーの時代には、自然現象の解明はそのまま、文明の進歩に直結していた、科学が大変魅力的な時代であった。現代にもそれを要求するにはムリがある。かといって現代的な新たな学問を設定しようとすると、トポロジーだのカオス理論だのと訳もわからぬ世界に迷い込んでしまう。集合理論も私の学生時代には、これからの数学だと重要性が説かれていたが、卒業して30年以上経過しても、いまだその重要性を感じたことがない。

 やはり、微積分、微分方程式どまりで十分ではないだろうか。

 宇宙の起源を論じるような科学にはそれでは不足だろうが、そんなのはごく一部のオタクがやればよいことで、学問として取り入れるべきものではない。

 大学進学率が60%を越えるような時代に、そんな科目を教えてもしかたない。かといって、古典的な学問を学んでも、先端的な技術には何の役にも立たないという、絶望感にとらわれる。そんなものは自動化されているから、理論なんて全く必要としない。電卓をたたくのに計算理論を必要としないことと同じである。 もし、後者であったとすると、これこそ受験戦争の弊害である。

 受験生の負担を減らそうという理由で受験科目を少なくする方法が採用されているが、これこそ、受験戦争をあおることになっていることを知らない。受験科目が少ないということは、誰しも、その科目に絞って受験するために、よほどの勉強をしないと他の受験生に遅れをとってしまう。したがって、受験科目以外は、それこそ分数の足し算さえできないという大学生が誕生することになる。

 私の高校受験(長野県)の頃は受験科目は中学で学ぶ全9科目で、図工や体育、職業家庭なんてのもあった。この時代の方がよっぽど正しい能力評価が行われていたような気がしてならない。日本では大学でさえ、学校で学んだ内容がそのまま会社で役立つことは少ない。工学部でさえそうだから、他の学部は追って知るべしである。 しかし、実際には高学歴者がそれなりの能力を発揮することが多いのは、大学で拾得した知識技能そのものよりは、問題解決に向けた意欲など総合力によることが多い。ということは、そのような総合力をたかめるにはどのような教育が必要かを論じる必要がある。その点では、アメリカ式の双方向授業が最も適しているように思う。教師がある範囲の宿題を出し、授業ではそれの発表とディスカッションで十分だろうし したがって、大学入試科目は高校で学ぶ全教科からまんべんなく、しかも正解が一つではないような問題を選定すれば、受験戦争というむだがなくなるような気がする。

 私自身の経験を振り返ってみても、高校の授業で先生から教えてもらったことは、どの科目も授業で何を取り上げていたという範囲だけであって、その内容の理解と習熟はすべて参考書等を用いて自分一人だけで学んだような気がする。  ましてや大学は独学そのものだったような気がする。全くもったいない話である。予備校はどうだったのかは経験がないので知らないが、似たようなものだったことだろう。学問ではないが、囲碁・将棋のプロを養成する一門の門下生は、生涯に一度も師に直接指導を受けることはないそうである。門下生同士の切磋琢磨によって、磨かれて行くしかないのだという。そして、もし、師から一局指導してあげるといわれたときは、おまえは見込みがないから、荷物をまとめて田舎へ帰りなさいというときなのだそうだ。古い因習にとらわれた世界とかたづけてしまっても、いまだその方式に打ち勝つシステムがでてこないということは、以外に、この方式が最も合理的だからかもしれない。結局は、学ぶということは、教えてもらうことではなく、自分自身で修得するしかないということなのかもしれない。しかし、何を学ばなければいけないかだけは、学校で教えてあげる必要はありそうだ。そしてその成果は高校まではテストで評価し、大学では論文で評価すべきだと思う。そして、何点以上が卒業ということになれば、ある分野だけで点を稼ぐのも良いし、まんべんなく点数を稼いでも、それはそれで評価しても良いのではなかろうか。それにしても生徒の方が学ぼうという意欲が湧かなければ、教育レベルの向上は望めない。そのインセンティブがブランドしかないとすれば、人生をかけようというほどのインセンティブが働くはずがない。従来のように、一流官庁、企業への就職とそれによる一生の生活の保証があるのなら話は別である。能力・業績主義が徹底して、学歴があまり意味を持たなくなった現在は、従来の生活保証に変わる価値観が必要である。その価値観が明確にならない限り、インセンティブは生まれない。

 もし、この時代に福沢諭吉が生きていたら、何といって「学問のすすめ」を書くだろうか。明治時代だったら、人間社会の貧富や貴賤はすべて、学ぶか学ばざるかによってその差が生まれるという脅しが効いたが、現代では、どんなに学んでも結局どれだけ稼ぐかということだけで、貧富や貴賤の差が生じるから、ひたすら儲けることだけを考えなさい、というだろうか。そうはいわないだろうけれど、時代はすでにそういう方向にまっしぐらに進んでいる。これこそがグローバリズムの正体だ。こんな時代にあって、学校教育が荒廃しているといってどんなに嘆いてみても、改善の糸口は見えない。

 いま、こんな時代だからこそ、学ぶのは、将来お金をたくさん稼ぐためではなく、自分自身が経済的にではなく、精神的に豊かな人生を送るためだ、ということを教える必要があろう。たとえば、子供の頃ピアノを習う子供は多いが、高校生くらいでほとんどやめてしまうが、受験勉強に忙しいからか、ピアニストとして生きてゆけるほどの才能もないからということだろうけれど、学んだことを捨ててしまうとは、なんというもったいないことか、そんなにうまくなくても時にはピアノ演奏を楽しむ人生をなぜ選択できないのだろう。ことほど左様に、学ぶこととそれで稼ぐこととなぜ一緒に考えてしまうのだろうか。考えようによっては、福沢諭吉の「学問のすすめ」のせいだと、いえないこともない。

 わたしが、現代の「学問のすすめ」を書くとしたら、次のようなことをいいたい。

 現代社会は経済最優先でここまで文明発展を遂げてきたが、一方、1300兆円もの個人金融資産を蓄えたのに、不況であえいでいる。かといって貿易も1300億ドルもの黒字、為替レートも購買力平価170円といわれているのに、105円そこそこという円高、それなのに不況、倒産、リストラ、自殺と暗いニュースばかりで、少しも血路が見いだせないでいる。さらには、ゴミ、ダイオキシン、地球温暖化など環境問題が、重くのしかかってきている。さらに、冷戦終結後に顕在化した、民族、宗教の対立は、先の大戦の時代のような領土拡大の野心からではなく、人間の心の底に潜む憎悪から、殺しが殺しを生む悪魔の連鎖が始まっている。このような時代に生き残りをかけた戦いというのは、決して、より競争力をつける経営効率化や攻撃されても相手に打ち勝つ軍事力ではなく、そうならないための知恵を身に付けることしかないはずだ。

 ところが、現実は、メーカはリストラで競争力を身につけ、国内需要は冷え切っているので、もっぱら輸出拡大を目指している。このことは、従来の行き詰まりを助長するだけで、決して改善できるものではないが、努力としてはそれしか道はないという状況にある。民族紛争にしても、コソボやチェチェンなど復讐が世紀を越えて続くばかりである。これらの原因は一に学ぶか学ばざるかによるものと思えてならない。

 もし仮に、人間が賢かったら、必ずや自然との調和を最優先に、より少ない資源でより豊かに生きられるよう、そして、人間同士争うのではなく、相手の人格を尊重して、譲り合い、助け合ってともに豊かな人生を送れる方法を考えつくはずだ。これらのことは何のことはない、日本神道、武士道、茶道に見られる清貧の思想、そして儒教の教えと、日本の伝統の心そのものではないか。

 それを実現するには学ぶしかないということか。

 それにしても、まず日本のその価値観を世界に発信することこそまず第一だろうと思う。