千利休切腹の理由

 

 千利休が秀吉に切腹を命じられ、何の申し開きもなく、切腹して果てたということは歴史的事実で、疑念を挟む余地がない。

 ところがその理由は、詫び寂びを尊ぶ利休と派手好みの秀吉とは、互いに相容れることはなかったとか、大徳寺の山門に自信の像を設け、その下を秀吉に歩かせて侮辱したとか、茶道具で不当な利益を得ていたとか、朝鮮出兵に反対の立場をとっていたとか、しまいには、秀吉を毒殺しようとしたとか、さまざまな理由が世に流布されているが、どれも説得力がないため、いまだなぞとされている。

 ところが、最近「本能寺の変431年目の真実」という本を読んで、歴史の真実に迫るには、記録に頼るのではなく、他の記録や情勢を分析の上、それしか考えられないという蓋然性を導き出す方法を知った。著者の明智憲三郎氏はその手法を「歴史捜査」として紹介していた。その手法によって書かれた「本能寺431年目の真実」はその通りまことに説得力があり、納得がゆくものであった。そのようなものが歴史ではなく、その昔何らかの意図で書かれた内容が歴史として残っていることが不思議に思えるほどである。歴史教科書に載った時点で、それが定説になってしまうことがよくわかる。

 千利休の切腹理由については、教科書でもなぞと記載されているから、なぞであることが定説なのであろう。それにしても、上記のいくつかの理由は、いずれもほとんど説得力がない。武士でもない文化人に切腹を申しつけること、またそれに平然と従うことなど、よほどのことがなければ、あり得ないことである。

 そこで、「歴史捜査」の手法を用いて、私なりに推論してみた。そして私なりに解決できた。それを以下に記す。

 秀吉は利休に、家康の毒殺を命じた。それを利休は拒絶した。それを恨み蟄居を命じたが、何の申し開きもなかった。そのため、その事実の発覚を恐れて、切腹を命じたというストーリーである。

 秀吉が家康の殺害を願うことは、本能寺の変で信長が家康殺害を計る理由と全く同じである。どうにもやっかいな存在だったのだ。利休がそれを拒絶する理由も明らかである。利休は南禅寺で修行を重ねてきた寺であるが、その南禅寺は家康と強いつながりがあったという。秀吉が蟄居を命じた理由も、拒絶したらしたなりに、秀吉にとって絶対服従の証がほしかったからであろう。ところが、何の申し開きもないとすると、いずれその陰謀は家康にも伝わることを恐れて、あえて、切腹というきびしい選択をしたのだろう。

 利休にしても、たとえ、毒殺を受け入れて実行したとしても、利休の個人的なうらみによる単独犯行と決めつけられて、いずれ抹殺される結果しか、残っていないことを容易に推測できたため、潔い死の道を選択したのであろう。秀吉にあまりに近づきすぎた結果として、あきらめたのであろう。

 以上のように推論すると、何の矛盾もなく、だれもが納得できるのではないだろうか。そしてそれが歴史の真実と断定してもよいのではないだろうか。

 そして、それを証明することは、秀吉か利休がどこかで証言していない限り、世に知られる機会は永遠にないことも明らかである。だからといって謎であると割り切ってしまうのは、後世の歴史研究者のとるべき態度ではないはずである。そう、利休に切腹が命じられ、それに何の申し開きもなく、平然と受け入れるなど、よほどの深い事情があり、その深い事情は、当事者が証言しない限り、永遠に不明とならざるを得ないことこそが真実なのだ。このように考察すると、上記の推論しか考えられないし、それを真実だったと受け止めてもよいのではないだろうか。