本能寺の変の真実

 

 「本能寺の変」で明智光秀が主君であった織田信長を討ち取ったとされる歴史は

誰もが知る歴史上の出来事として知られているが、その歴史的出来事が何故起きたのかについては、全く納得がいくものがなく、私は私なりに、徳川家康が仕組んだものではなかったかと、ずっとこれまで思い込んでいた。なぜならば、堺見物を終えて「本能寺の変」を知った家康一行はほうほうの体で、伊賀越えをしてその恐怖の表情を肖像画にして残していることに、何かを隠蔽しようとするわざとらしさを感じたからである。

 その画は確か高校の歴史の教科書で見たことがあるが、ムンクのあの名画「叫び」に似た画で、一般に知られている家康像とは全く異なり、余りに見え透いた作為を感じたからである。

 また、秀吉の「中国大返し」も余りにできすぎた話として納得できないでいた。

 さらに、以前「世界不思議発見」なるテレビ番組で、明智光秀は「天海僧正」ではないかとか、日光東照宮に近く平野を見渡せる場所の名が「明智平」だとか、徳川三代将軍の乳母「春日の局」は明智光秀の家老斉藤利三の娘だとか、家光の実母はこの「春日の局」だという記録があるなど、家康と光秀を結びつける状況証拠が多々存在する。

 かくいう私は歴史研究の専門家でもなんでもないのだが、世に流布されている説明にどうしても納得がいかないのである。どうしても「本能寺の変」には家康が絡んでいたと思わざるにはいかなかったのだ。

 こんな私の疑念を打ち払ってくれる本にであった。「本能寺の変431年目の真実」明智憲三郎著、文芸社文庫 である。

 著者は光秀の子、於鶴丸の子孫だという。氏は記録をそのまま真実ととらえるのではなく、歴史的事実と記録をつきあわせながら、記録の妥当性を解き明かして、真実に迫る、これを「歴史捜査」と呼んでいる。たとえば「和歌山カレー事件」を例に、状況証拠のみでも容疑者主婦以外に犯行を実行できる者はいないということで判決がでたことを挙げている。

 これによると、織田信長が手薄な警備で本能寺に入ったのは、そこへ家康一行を招き入れ、それを光秀軍が家康を討ち取る計画だったが、逆にそれを家康、光秀に逆に利用されてしまったという説である。

 そして「中国大返し」は秀吉が、事前に変を察知していたとする。なぜ、察知できたのかについて、家康、光秀の談合に細川藤孝が加わっており、その家老松井康之と秀吉の間で頻繁な手紙のやりとりが残っている。結局細川藤孝は事前に秀吉に凋落されていたのだった。

 この構図では、秀吉と家康の対決は避けられないことになるが、これについて氏は三者が密かに会い、本能寺の変の陰謀をすべて隠蔽して、すべて光秀の単独謀反とすることに決定したとしている。その結果、細川藤孝の嫡男忠興の妻玉子(後のガラシャ)は何のとがめもなく呼び戻されている。玉子は夫、舅のあまりの所業に世の無常を感じて、その後キリスト教に入信して、ガラシャと名乗ったことはよく知られている。

 以上の内容は、本を読むと記録や手紙、日記などと歴史的事実と照合しながら、実によく説明されており、納得がいくものであった。

 結局、本能寺の変の本当の首謀者は細川藤孝ということになるそして。細川家は豊臣政権時代から徳川時代に渡り、厚遇されて行くことになったことにも納得がゆく。

 それにしても、哀れなのは光秀である。それ故か、家康は光秀になみなみならぬ恩を感じていることが覗える。

 三代将軍家光という名も豊臣家滅亡まで元服を待って、つけられたもので光秀の光をつけている。そして光秀の片腕であった家老斉藤利三の娘、福を乳母に迎えている。すでに結婚していて子供までいる福を、離縁までさせて、乳母として迎えるが、それは乳母というより愛人に近い様だったという。後の春日の局である。

 しかし、最後に一つだけすっきりしないところがある。それは家康と千利休について何も触れていないことである。千利休が無関係というのは私はどうしても納得がゆかない。

 歴史というものは時の政権が自分に都合の良いように作り上げるものだということがよくわかった。「本能寺の変」については、「信長公記」や「惟任退治記」が元に歴史は語られているが、いずれも都合良く修飾されていることにも着目しなければならない。

 そうしなければ真実に迫ることができない。