いじめの問題を考える

 

 大津市の中学生が、いじめを苦にして自殺した事件は、とうとう警察が捜査に入るという、前代未聞の展開になりつつある。

 いじめというと、言葉は子供のお遊びのような響きであるが、その内容は、金品の強奪、や暴力など、大人の社会生活で発生すれば、当然、恐喝罪や傷害罪に当たるような内容が含まれているが、これまで司法がいじめ問題に関わることはなかった。その理由は、教育現場における問題は学校や教育委員会が、責任を持って解決すべき問題としてきたことが最大の原因であろう。

 ところが当の学校と教育委員会は、そのような不祥事をできることなら、なかったことにしたいため、本気な調査や、防止対策をしないばかりか、実態が明らかになっても、口止めなどにより、隠蔽してしまうことが、まかり通ってきた。そして、いじめをチクったとして、さらに陰湿にエスカレートしてゆくことになる。そして終いには「死ぬしか逃れる道はない」として、死を選ぶことになる。

 この段に至ってもなお、いじめはなかったこととしたいのが教育現場である。教育を何と心得るかと迫ってみても、「自殺との因果関係は認められなかった」と逃げる。

 この構図は警察にさえある。ストーカー被害を訴えても、受理されずに、殺されてしまうこともあった。どこもここも事なかれ主義がまかり通っている。それは教師も聖職ではなく、警察官も正義を守る仕事ではなく、単なるサラリーマンになってしまっているからであろう。できたら面倒なことは避け、毎月決まった給料を手に入れたいのだ。そして、その上司もさらに、事なかれ主義なのだ。上に行けば行くほど、事なかれ主義は、顕著になる傾向がある。上司にしてみれば、「うまくやれよ、面倒なことを持ち込むんじゃないよ」ということになる。そして、その不作為の結果は、明らかになったとしても、せいぜいマスコミにたたかれるくらいで、給料がカットされるわけでもない。すると、さらに「もっとうまく処理せよ」ということになる。この無責任体制は、社会システムに厳然と存在する。

 このような社会システムの中で自分や家族を守るためには、逃げるか復讐しかない。しかし、復讐というものは、エスカレートしやすい。そのエスカレートを防止するために、人類は初めて法律を定めた。有名な「ハムラビ法典」である。目をくりぬかれたら、その相手の目も同様にくりぬく事をみとめ、歯を抜かれたらその相手の歯を抜くことまで許される、すなわち、それ以上の復讐を禁じたのだ。それが法律の原点であるが、社会システムが、それを担保してくれないかぎり、復讐という前時代的な社会に戻らざるを得ない。

 特に、教育現場というものは、一般社会から隔絶した特殊世界であるから、なおのことである。とくに、子供の世界というものは、相手の立場に立ってものを考えることができない未熟社会であるから、いじめと軽い遊び感覚をしっかり認識することができず、ついエスカレートしやすい。その連鎖を断ち切るには、ひどい復讐にあって初めて気がつくということになる。

 私の子供時代の経験であるが、長い間の病が原因で言葉がうまくしゃべれないのを、よくからかわれたものだった。小学校から中学に上がる、そろそろ自我が確立してくる時期になると、からかわれるという理不尽をどうしても、見過ごすことができなくなり、いつもの通りからかうやつを必ず殴ることにしたことがあった。そのときのその相手の恐怖に引きつった顔を今でも忘れることができない。そして、誰もからかうやつはいなくなったのはよいが、私は皆から恐怖の目で見られるようになってしまった。それ以来、積極的に皆に優しく接しようと努めたものであった。

 今から振り返ってみると、あのとき私がそのまま黙っていたら、からかいはさらにエスカレートしたであろうし、私の反撃もそのままエスカレートしたら逆のいじめにつながっていったかも知れない。未熟な子供の世界ではそのようなあやふやさが、常につきまとう。子供達はこのような経験を積み重ねながら成長をするのが、本来の学校生活であろう。

 このような本来の学校生活の出来事から逸脱した、恐喝や傷害はやはり、警察が扱うべきものだろう。どこからが逸脱かを決めることは難しいだろうが、少なくとも、万円単位の恐喝や、肋骨や足の骨の骨折は明らかな刑事犯罪である。それは大人社会と同じである。

 ただし、教育現場ではそれらの兆候を見つけ出し、未然に防ぐことが使命であり、起きてしまったら検事事件として警察が取り扱うべきであろう。ましてや、自殺など、命にかかわる場合は、厳しく対応するべきであろう。

 しかし、現在の教育現場も警察も事なかれ主義から抜け出せない現状では、自ら解決しなければ、死まで追い詰められてしまう。死ぬことまで考えるくらいなら抜け出す方法はいくらでもある。親や先生に訴えるのが一番であろうが、それができるくらいなら、とっくに解決しているだろうから除くとして、最良の方法は暴力で復讐することである。

 日本は戦後の民主教育で暴力否定の教育を徹底し、それが骨の髄までしみこんでしまった。その結果死を考えるほど追い詰められてもなお、暴力を封じられては、それこそ死んだ方がましということになる。

 作家の椎名誠は最近の週刊誌誌上で、子供時代のいじめられ体験を綴っていたが、5人の暴力にはひどい目に遭ったが、仕返しとして、その中の一番強いやつが一人でいるのを待ち伏せして、徹底的に痛めつけて、以降のいじめを回避したという。

 これはちょっとできすぎの感がある。一番強いやつを痛めつけることはそんなに簡単ではないからある。おそらく、俺はそれほど強かったと自慢しているように聞こえる。

 そんなに強ければもともといじめられっ子になることもないのではないだろうか。

 私だったら、どんなに弱い子でも暴力で勝つ方法として、授業中に、こっそり棍棒を隠し持ち、いきなりいじめっ子の頭を思い切り殴りつけることを教えてやりたい。それこそ学校中が大騒ぎになり、いじめも隠し続けることはできなくなるはずである。

 私の父は、生前、農業技術員に袖の下などの気配りをしないがため、稲作の病虫害の相談を鼻であしらわれたのを許せずに、昼休みの村役場へ、棍棒を持って押し入り、大騒ぎとなり、結局その指導員は転出させられていったということがあった。子供の私が留守番をしているときに、その指導員が転勤の挨拶に訪れ、謝罪のメモを置いて行ったのを覚えている。そんな騒ぎが起きなければ、すべて事なかれ主義で流されてしまうはずである。被害者は泣き寝入りを余儀なくされる。本当に棍棒を行使したかどうかは不明であるが、棍棒を片手に交渉したことは確かである。

 暴力否定と軍事力否定には同じ病根が根付いているように思える。軍事力行使を憲法で否定しているため、近隣諸国からどれだけひどい仕打ちを受けていることか。なかには暴力や軍事力を背景にした方法でしか解決できない問題があるのではないだろうか。刑法はそもそも報復を前提とした法律であるが、それが少しも子供をいじめから守れないなら、個人的な暴力行使しかないのではないだろうか。

 光が丘母子殺人事件の遺族は、法律で犯人の死刑を決めなければ、どんな手段をとってでも個人的に犯人を殺すと明言していた。そのとおりである。

               以上