福島原発事故から一年

 

 福島原発事故から一年を迎えようとしている。昨年12月に野田総理は「原子力発電所事故収束」宣言をしたものの、原子炉内状況はまだまだ把握できず、事故収束などとんでもないという声も多い。しかし、炉内温度と使用済み燃料プールの温度は目標以下に現在あることだけは、確かなようである。

 また、畑村洋太郎氏の事故調査委員会の中間報告も出され、事故発生の経過は明らかになったものの、事故原因については、一言で言えば、想定外の津波に襲われたということにつきるようである。

なぜ、想定できなかったかについても、869年に発生したとされる貞観地震による津波から想定すると、設計を遙かに超える津波の高さは想定されたものの、1000年に1回あるかどうかの事であったため、危機感は乏しく、東電によると、平成24年の土木学会の検討結果を待って、その結果により対策をとろうとして、その旨を今回の津波発生の4日前の37日に、原子力保安院に届け出たとのことであった。

 言ってみれば、想定外ではなく、想定内であったが、対策は未実施であったため、事故を防ぐことができなかったことになる。

 では、なぜ対策がなされなかったのかについては、あの誰かさんのギャグにもあったとおり、「今、やろうと思っていたのに、、、」ということになる。そんな一言で済まされるにはあまりに重大な事故であるが、そのギャップにこそ、真の原因が潜んでいると私は見る。

 昨年1127日のNHKテレビの「NHKスペシャル」で、これまで原子力に関わった、東電その他の重鎮達の、釈明会見で、だれもが、1000年に1回あるかどうかの話を、誰もが、そんなに目前に迫った問題として認識いなかったことを認めている。その上で、もし、そんな恐れがあることが地元に知られたら、即、運転は不可能になると、発言した幹部がいた。

 これが真の原因ではなかろうか。常識的に考えれば、絶対安全だと言い続けてきた原発が、貞観地震級の地震がもし発生したら、炉心熔融が発生し、放射能をまき散らす恐れがあるといえば、確かに、即運転停止を余儀なくされることだろう。

 確かに、5.7mしか想定していない津波が、10mを超えたら、発電所設計を根本から見直さざるを得ず、莫大なコストと時間がかかることは理解できる。しかし、変電所など屋外設備はやられても、非常用電源だけは確保して、炉心冷却だけはできるようにすることは、いとも簡単なことである。だからといってそのような対策は決して許されない。原発の事故は屋外変圧器一つでも、事故は許されないという世論がある。過去に柏崎刈羽原発が、新潟沖地震で変圧器火災を起こしたことがあったが、放射能漏れはなかった旨の発言に対し、世論は激しく反発し、運転停止まで追い込まれたことがあった。

 ところが、これは全く見当違いで、変圧器なんて、その他の一般変電所と同一の耐震設計であり、放射能漏れにつながるような、機器の設計とは全く異なる。致命的な事故につながらないような機器は、一般の電力設備と同一の設計のほうが、コスト面でも合理的なのだ。それで事故が発生したら、ゆっくり修理すれば良いだけである。こういう判断はプロの技術者の判断であり、それを世論は決して受け入れようとしない。原子力にはそういった側面が根強い。世の中の一般の人にとっては、原子力発電所の設備はすべて、事故はあってはならないと信じているからである。そして、その絶対安全をずっと言い続けてきたのは電力会社である。

 津波対策にしてもすべての設備が、どんな大きな津波に対しても無事故を確保するには、それこそ、莫大なコストがかかるし、非現実的である。

 今回の福島原発の事故で言えば、非常用予備ジーゼル発電機さえやられなければ、炉心熔融は起きなかったことがわかっている。ではその非常用ジーゼル発電機が大きな津波に耐えるには、莫大なコストがかかるかと言えば、そんなことはない。現に、56号機はかろうじて炉心冷却は成功している。56号機付近の津波が想定内だったからではない。3台の非常用ジーゼル発電機3台のうち1台が水冷式ではなく、空冷式であったためである。

 そんな簡単なことで、炉心熔融が防げるのなら、何故すべて空冷式にしないのかという声が聞こえてきそうな気がするが、なぜそうしなかったかと言うところにも真の原因が潜んでいると考える。

 水冷式ジーゼル発電機に冷却水を供給するポンプは屋外の海辺近くに設置されているため、津波に襲われると真っ先にやられることになる。何故そんな危険なところへ設置するのかは、そもそも津波に襲われることを想定されていないから、最もコスト面で有利な機器設計と配置をするからである。ということは、空冷式を1台採用したのは、コスト面で有利でないどんな理由からであろうか。

 福島第二発電所も想定外の津波に襲われたものの、炉心熔融は免れた。なぜだろうか。第二では、非常用ジーゼル発電機は第一と同様に水冷式であったが、その冷却水ポンプはやはり海辺近くであったが、小屋の中に設置されていたため、何とか予備電源を確保できた。この小屋にしても、想定外の津波対策ではないはずである。

 早い話が、非常用予備ジーゼル発電機のうちせめて1台が空冷式であったり、冷却水ポンプがせめて小屋で囲ってあったら、今回の深刻な事故は発生しなかったのだ。しかし、想定外の津波対策をすることはないはずである。そんなことが地元にばれれば、即運転停止を余儀なくされるからである。

 どんなこじつけの理由で空冷式や小屋を設置したのかは知らないが、おそらく上層部から相当な反発があったはずである。想定外の津波対策をすることは発電所の全否定にもつながるからである。しかし、対策工事そのものはきわめて軽微であるため、権限的に上層部にまで上げずに実施できたことであろう。したがって、すべての号機に適用することはこじつけ理由がなく仕方なく、なにかの他の関連工事としてしか実施できなかったことが覗える。しかし、確実に想定外の津波対策を実施しようとしていた技術者がいたことだけは確かなようである。

 以上見てきたとおり、想定を超える津波を認めることは、発電所全否定につながり、地元に知れたら、即運転停止を余儀なくされることを恐れるあまり、公表どころか、ごく軽微な対策さえも未実施であったため、今回の深刻な事故を招いたことが見えてくる。しかも、それをNHKのインタビユーに平然と答えている元原子力担当の副社長がいるのには驚く。

 事なかれ主義もことここに至っては、事故調査分析が肝心で、個人の責任を問うことは、真の事故原因を追及する上で支障となるとの、畑村委員長の言こそ、重要なことを見失うことになる。

 このたびの事故で世の中は、原子力は絶対安全ではないと証明されたとして、廃止の方向で国全体が動いているようだが、もし、上記のような軽微な対策さえ取られていたら、事故は未然に防げたと判明しても、世論は脱原発をいうだろうか。おそらく津波以外でも想定外のことが起きれば同じだというだろうが、冒頭でも述べたとおり、想定外ではなく想定内であったが、対策が未実施であっただけである。

 その未実施であったのは、地元の反発を恐れたためという、きわめて単純な事なかれ主義の結果である。それがこのような深刻な事態に陥ったのは、その責任は万死に値する。

 お願いだから、切腹とは言わないまでも、命をもって償ってもらいたい。そして、その遺書の中で上記の内容を懺悔してもらいたい。そうすれば、世論もそんな単純な事だったのかと、真の原因を理解し、感情的に脱原発を推進する動きも収まるかもしれない。それ以外では、NHKインタビューにも見られるように、単なる言い逃れにしかきこえない。

 脱原発の状況を「センチメント」(情念)と表現したのは、石原慎太郎東京都知事である。

 あれだけの事故が起きれば情念的に拒否反応は当然としても、事故後1年を経過しようとしているのに、真の事故原因とその反省にたち、情念ではなく、理念で原子力技術を見直すべきだと主張する。当たり前のことであるが、いま、それを口にすると袋たたきの目に遭いそうな現状である。戦時中反戦を口にするような雰囲気にある。

 この一方的な世論のありようが、想定外の津波対策を遅らせた要因になっていないだろうか。ただただ世論、地元が怖くて絶対安全を言い、想定外の津波を隠蔽し、事なかれだけを唯一最大の価値観としてこなかっただろうか。

 最近の斑目原子力安全委員会委員長の会見でもそんな雰囲気を感じ取れる。

 電力会社も保安院も安全委員会も村社会と批判されるが、どこも事なかれ主義が価値観では、どんな独立組織を作っても同じこと。事なかれ主義を打破するには、個人責任を明確にするしかない。そんな観点で見れば、今回の事故責任は死刑相当であることだけはまちがいない。                      以上