カラオケ

 

 私がまだ子供だった頃、家でハーモニカを吹いていると、決まって近所で飼われていた「クロ」という犬が、ハーモニカの奏でる音楽に合わせるがごとく、ウオーとまるで歌っているがごとく抑揚をつけて吠えていたことを思い出した。別に訓練したわけでもないのに、ハーモニカを吹いている間だけ、吠え続けていたことは、明らかに音楽を感じ取って、それに合わせて歌っていたにちがいない。すべての犬がそういうわけではないが、音楽に合わせて歌うことは、動物の本能かも知れない。

 人間にとっても、古くから笛、太鼓、ギターなどの演奏に合わせて歌は歌い続けてきたが、楽器演奏はそれを習得には多大な時間と労力を必要とする。わたしも学生時代からギター部に所属して現在も続けているが、未だ人前で披露するところまではいっていない。 したがって、楽器演奏に合わせて歌うことはきわめて機会が限定されてしまう。

 ところがカラオケなる物が発明されて、習い覚え立てのヘタな演奏ではなく、一流な演奏、そうオーケストラのバック演奏で歌うことも、容易にできることになった。文字通りカラオケである。

 このようにありがたいカラオケ文化が格安で利用できるようになったにしては、あまりに活用が限定的であるように思う。特別にカラオケを趣味にしている人以外は、旅行や納涼会、忘年会などの宴会に歌う程度の人がほとんどのようだ。ところがわたしに言わせれば、そういう宴会の時こそ、歌ではなく、大いに呑んで会話を楽しむ場所でありたい。大声で歌が歌われると、うるさくてほとんど会話が成立しない。それでも歌に負けずに大声で話しをすると、歌っている方にしてみれば、話し声がじゃまになるので、さらに大声で歌うことになる。こうなったらもう地獄だ。カラオケ嫌いの人に言わせると、まるで拷問だそうである。いつも代わり映えのしない、話も途切れがちの宴会だったら、余興としてのカラオケも意味があるかも知れないが、昨年、中学時代の同級会で、50年ぶりの再会の宴会でもカラオケには驚いてしまった。

 やはりカラオケは歌うときにはカラオケに徹したいものだ。その点でカラオケボックスは最適だ。どんなに歌っても他のお客さんに迷惑にはならない。わたしは一人でもカラオケボックスを利用している。よく一人でカラオケボックスに行く気になりますねと、よく言われるが、わたしに言わせれば、他の人に聴いてもらえないようなところでは歌う気にならないと言う方が不思議でならない。他の人が聴いていると、どうしても座がしらけないよう選曲にずいぶん気を遣ってしまい、ほんとうに歌いたい歌は一人でカラオケをするときに限るようにしている。先日の新聞で韓国での「マイウェイ殺人事件」を報じていた。好きな曲「マイウェイ」をとくとくと歌っていることに、他のお客にけちをつけられ、殺人にまで至ったという事件である。韓国ではマイウェイはことのほか人気があるということだが、日本ではさしづめ「昴」というところだろうか。本人が気持ちよければ良いほど、座がしらけるという面があるから、他の客がいるときにはことのほか選曲に気を遣ってしまう。

 その点で、一人カラオケならそんな気遣いも必要がなくのびのび楽しめる。最近は一人カラオケも増えてきているらしく、一人カラオケを略して「ヒトカラ」と呼ばれるとテレビでも紹介していた。あのものまね上手の松井直美は5〜6時間はヒトカラをしているという。わたしはせいぜい2時間だけれど歌い続けると、だいたい25曲ほど歌え、そこそこに疲労して満足して帰れる。

 しかし、やはりいつも一人では少々さびしい。私同様歌うときには、好きな歌を好きなだけ歌いたいという本当のカラオケ好きの人もいるに違いない。犬のなかにもハーモニカに合わせて歌わずにはいられない犬がいるように、そういう人と一緒にカラオケができたらどんなに楽しいだろうかと思うようになった。そういう人達とだったら、座がしらけることをあまり気遣わずに、自分の好きな歌を歌えるだろうし、逆にそういう人達の本当に好きな歌を聴いてみたいとも思う。

 これまでわたしが見てきたカラオケ好きという人はほとんどが、自分の声の特性に合った歌を選曲するためか、どの曲も同じ雰囲気で曲が変わっても変わった曲にきこえないような人が多い。せっかくのカラオケなのだから楽しい曲から悲しい曲までいろんな世界を楽しみたいものだ。