尖閣列島領海侵犯事件

 

 先日、所属する社交ダンスサークルのダンス旅行で湯田中温泉に行ってきた。その朝食の折りに尖閣列島侵犯の中国の船長を、日中の関係を考慮して釈放したとのニュースに、日頃政治にはあまり関わりたくないという感じの普通のおばさん達が、口々に日本の弱腰の対応をののしっていた。6人ほどの全員が同じ反応というのはめずらしい。6人という少数ではあっても、事件に全く無関係の全員ということは、もし世論調査を実施したら100パーセント近い結果が出ることを示している。

 日頃国民のための政治を標榜している民主党が、それを知らないはずはない、それをあえて真逆の選択をしたのは何故だろう。政府は当初、国内法に基づいて粛々と行うと、宣言していたから、公務執行妨害の罪は法的にはそういう結果しかしょうがないのかと思ったら、案に相違して、那覇地検の会見では、法的にではなく、日中関係を考慮した結果だという。

 だとすれば、一地検が外交判断を優先して、法を無視した事になる。これでは法治国家どころか、どこかの将軍様の指示で法をいかようにも運用する国以下の無法国家である。そういう国でさえ、国のトップの指示の元のことであるから、その国としては正義であり正常である。しかし仙石官房長官は、その一地検の暴走を厳しく指弾するどころか、それを「了」とすると表明した。

 しかし、国民はちゃんと建前と本音をかぎ分けて、評論家やコメンテータが訳知り顔で、これは政府からの圧力があっての結果だと解説していた。だれも地検の判断だとはおもっていないのである。だとすれば、なお悪い。悪いというよりは卑怯であろう。責任を地検になすりつけてそれをなかったと言い張っている小学生のけんかの言い訳より始末におえない。

 粛々と国内法に従って処理するといったなら、子供の言い訳よりましになるためには、一地検が国内法ではなく外交上の判断を優先したことを厳しく指弾すべきであろう。それこそおとなの嘘のつきかたではないか。

 民主党ばかりではなく、どうも日本全体に日米安全保障条約があるから、いざというときはアメリカに守ってもらえるという意識があるように思う。その証拠に今回も日米外相会談で、クリントン長官から、尖閣列島は安保の第5条の適用範囲だという原質を得て大いに意を強くしたようだ。さらに、長官から早期解決を望むといわれて、ついつい先走って釈放してしまったのではないだろうか。ものはとりようであるが、早期解決を望むというのは、面倒をもちこまないでほしいという一般論であろう。北方領土しかり、竹島しかりである。いつアメリカが守ってくれただろうか。

 しかもその安保第5条というのはよく読んでみると、「自国の憲法上の規定にしたがって、共通の危険に対処するように行動する」とある。これは自国に危険が及ばなければ行動しないことを規定している。したがって、アメリカは先には動いてくれない。だから、早期解決を望むとしか言わないのであろう。

 かつて駐日米大使モンデール氏は尖閣列島は安保対象外だと発言し、物議を醸したことがあったから、今回のクリントン長官の発言は大いなる進歩であっても、その程度の事なのだ。その程度のことが明確になったから、安心して安保対象と言ったのではないかというのは考えすぎだろうか。

 尖閣列島の問題が大きくなり、日中がのっぴきならない状態に陥り、その際アメリカが日本を支持した結果、中国がアメリカの艦船を軍事攻撃ということにもならない限り、アメリカは動いてくれないと考えるべきだろう。

 だいたい、日中がやり合ったときはたして日本を支持してくれるだろうか。実効支配しているのはどちらかということになりかねない。北方領土、竹島しかりである。竹島には韓国の機関砲が設置されていても、アメリカは知らん顔である。アメリカより日本自体が抗議文書を送付する程度で、交渉する気もない。これも粛々と抗議していることになるのだろうか。せいぜい、島根県が「竹島の日」を設置したくらいのことで、実行支配はなんら変わらない。

 今回の領海侵犯も一漁船の偶発と捕らえているひとは誰もいない。アメリカの前国務次官補アーミテージ氏は、日本は試されているのだと言ったが、たぶんそんなところだろう。どこまで日本が譲歩するかが問われているときに、一つ譲歩すればさらに次の試しが待っている。案の定、船長を釈放したら、感謝ではなく、謝罪と保障を要求してきた。しかも、日本人の逮捕した4人はそのままである。

 この事態にさすがに政府も「応じられない」と応じたが、鳩山前首相は「私の時代には日中関係はもっと良好だった」と言ったという。冗談ではない、幹事長が百人を超す大勢の国会議員をつれて、一人づつ主席とのツーショット写真をとって、「人民軍の一司令官のつもりでがんばる」と友愛朝貢外交の結果が招いた事態だという認識もない。

 譲歩している限り要求は永遠に続くと認識した方がよい。

 しかし、どの線まで妥協するかは大きな問題である。それが外交なのだ。行き着くその先には必ず戦争が待っている。だから、戦争は外交の一手段だとさえ言われる所以なのだ。

 どの国もそれを知っているから軍備を国防の要に据えている。日本は世界に例のない平和憲法でそれを放棄している。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」するから放棄するのだという。世界の諸国は平和を望んでいるのに日本が軍事力でそれを侵害することをなくするためだというのだ。

 アメリカ軍基地を日本に置くのも、日本を守るためではなく、日本が二度と軍事行動を起こさないことを監視することを目的にするのだと、当時ダレス国務長官が明言している。

 その一方で、中国は2桁の延びで軍事力拡大を続けている。そして、このたび諸般の状況が尖閣列島へ触手を伸ばす自信を得た結果の行動だろう。この種の問題に粛々と対応していてよいのだろうか。すべて手遅れになるはずである。相手はそれを読んで仕掛けているのに、粛々くらいではどうにも対応できるはずがない。こちらが粛々などと言っている間に、中国は国連総会で、首相が「我が国は自国の領土や利益に関して一歩も譲歩しない」と演説を行っている。それに対して菅首相は自分の薬害エイズのときの経験などから、不幸を最小限にする取り組みを行い、海外へのばらまきまで約束してきた。そして、オバマ大統領との会見でも、尖閣のせの字も出さずに帰ってきた。それはそうだろう、一地検に全部責任をなすりつけるのだから、それしかなかったのだろう。

 あるいは、あんな小さな島どうでもいいと思っているのかも知れない。領土というものは少しくらいではすまされないことは歴史が証明している。しかし、今はそんな時代ではない。軍事力ではなく話し合いで解決すべきというかもしれない。現に鳩山前総理は尖閣列島にについてそう発言したことがある。その後「よく勉強してみたら」尖閣は日本固有の領土で領土問題はないことがわかったらしい。

 領土も陸地だけかとおもったら、海も大陸棚の範囲は自国の領土だと言い出した。国際法では海は中間線を境界とすべきだとなっているので、国際法廷での調停をかたくなに拒んでいる。そういう国と話し合いなんて成立するだろうか。結局力関係に頼らざるを得ない。

 その力についても、憲法で軍隊を放棄しているのにどうすればいいのか。結局日米同盟に頼らざるを得ないが、それも、日本が真に自国を守る努力もせずに、アメリカも守ってくれるはずがないことは前述のとおりである。

 粛々とでは努力を放棄していると受け止められてもしかたない。

 粛々となどという奇妙な言葉をなぜ恥ずかしげもなく使い続けるのだろうか、とは、曾野綾子氏の言葉である。