DIY

 DIY(Do it yourself)の話である。今や、ホームセンターは休日ともなると大変なにぎわいである。この傾向は日本ばかりではなく、アメリカでも一般サラリーマンは休日には家の中、周囲をいろいろ手を加えることが、奥さんに何度もせがまれてやるというよりは、どこか直すところはないかとてぐすね引いて待っているほどのブームだと聴く。また、パーティーの席上では、何を作った、どこを直したと自慢話に花が咲くという。この風潮はDIYが単なる住環境に必要なことを行うというよりは、趣味となってしまっているようである。

 これまで人類は効率化を追求して、分業化を進めてきた。家を作るだけを見ても、大工だけではなく、屋根職人、左官、板金工、配管工、塗装工などそれぞれの専門の技能を有する職人に依頼することが最も安価でしかも良いものができるとしてきたものであった。これは、家作りばかりではなく社会全体がそういう構造になっている。またそういう構造を強化することが、文明の進歩であった。そのため世界には極めて多様な職業が生まれて、そしてどんな職についていようが、所詮人間は人間であり、衣食住は同じようなものを求めることには変わりはない。 生活に必要なものを求めることは労働なのか趣味なのか、それとも遊びなのか。原始人間社会ではそれのどれでもなく、それは生きることそのものであったはずだ。それを人間社会では効率化を目指して分業化・専業化することによって、生きるということが労働に変化していったのではないだろうか。そして、その労働に属さない行為を遊びに位置づけた結果、労働は尊いもので、遊びは労働の成果物を食いつぶす慰安行為として、軽蔑されるようになってしまった。

 若干の救いがあるとするならば、適度な遊びは新たな労働力につながる疲労回復の手段として評価される程度でしかない。

 このように労働が高い評価を受けるのはなぜだろうか。それがもし自分自身の必要なものだけを求める行為だった場合は、単なる趣味ということになるが、専門家として他人のために働くとき、それは労働ということになり、高い評価を受けることになる。しかし考えて見れば、他人のために働くのはそれにより報酬を受け、その報酬で自分に必要なものを求めるのだから、自分自身のために働くのと本来何のちがいもないはずなのだ。その分業が進むことにより、人間は生きているうちに生きる行為のうちごく一部しか体験せずに一生を終わることになる。 いくらその方が効率的だからといえ、生きることそのものを放棄していることがないだろうか。たとえば、年に一度の正月のお節料理や餅、お彼岸のおはぎ、柏餅など、スーパーで買ってきて食べて行事を行ったつもりでいるのだろうか。 自分の住む家の修理を業者にやってもらって何の疑問も感じないのだろうか。自分でできないことは業者に依頼するしかないが、その分生きる実感を放棄したことにならないだろうか。したがって、自分でできることは極力自分ですることが生きているということではないだろうか。

 20世紀が生んだ偉人として名高いインドのガンジーは暇さえあれば、常に糸を紡いでいた。それはインド独立運動でイギリスへ外交交渉に行く船にまで糸紡ぎ器を持ち込んで、ずっとそれをやっていたことを先日のテレビで紹介していた。 ガンジーにとって生きるということは暇さえあれば、糸を紡ぎ続けることであったにちがいない。それはまたインドの人たちのごく一般的な生活であったのだろうと思う。

 子供の頃、餅つき、味噌醤油の仕込み、まゆだまつくり、七夕まんじゅうなど家族全員でやったことの胸のときめきが忘れられない。

 DIYも結局そんなところに流行る原因があるのかもしれない。

 自給自足農園もそういう意味ではDIYの極致かもしれない。家の修理だったら、修理が済めば終わりだが、農園は生きている限り永遠に続くことだからである。いってみれば、ガンジーの糸紡ぎみたいなものである。

 しかし、いざそれを実行しようとすると、あまりに障壁があることに気がつく。第一に、土地が専業農家でない限り、買うことも借りることも法律で禁じられている。用地があったとしても、無農薬有機で野菜を作ろうとしても、虫や病気でやられてしまい ほとんどものにならない。それに少々できたとしても、できたものはそれを買ってくるより何倍ものコストがかかってしまう。しかも不揃いであったり、出来が悪かったりでとてもじゃないが、売り物にはならない。しかし、自分でつくったものを食べることはおいしいというが、おいしいを超越した喜びを感じることができる。これが生きることの喜びかもしれないと思うほどである。

 これらのことを経験すると、現代の消費者はなんという横暴なことか。ちょっとした変形や不揃い、ましてや虫食いなどあろうものならば、買わないばかりか、業者が生産者から引き取ることさえしない。したがって、農家は売り物になるものばかり、粒ぞろいにして出荷するために、大量な不良品を産んでいるし、その出荷額は出荷のための労賃程度となっている。それでも経営が成り立つためには、それこそクスリづけにするほど農薬を使わなければならない。

 キャベツ農家では出荷用は虫食いひとつないが、自家用は農薬を控えて虫食いだらけのものを別につくって食べているそうである。

 消費者の選択というが、消費者はだまされているということをしらない。

 すなわち、消費者が安くて良いものを求めれば求めるほど、高くて、まずい、しかし見た目だけは良いクスリづけのものになってしまうジレンマに陥ってしまう。このジレンマから抜け出すには、消費者はもっと賢くならなければならない。賢くなるとは、自分の食べるものが、自分以外の誰かにつくってもらっているという感謝の気持ちが持てるかどうかにかかっているように思う。そのためにも、自分でつくってみるというDIYは大変意義深いことである。生きる方策をお金でしかもできるだけ安く買うのではなく、生きる意味をしみじみ味わうことが大切で、安ければいいというものでもあるまい。バーゲンで買ってきたセーターと彼女が編んでくれたセーターを比べて見ればわかりやすい。