健康を考える

 人間の体は歳をとるとともに少しづつ弱くなって行き、そのうちに死を迎えることになるわけであるが、死ぬその日までは何とか健康で暮らしたいものだ。

 私の父は、農業を一人で85歳まで健康で営んでいたが、その年の米の収穫も済み、炭焼きなどの冬支度も済ました12月のある日、夜中の3時ごろ寒いからと言って、風呂を沸かして入り暖まってから寝たが、朝9時になっても起きてこないので、起こしに行ったところ、すでに死んでいた。

 こんな死に方ができたら最高であるが、問題はどうしたらそんな死に方ができるかだ。

 人間はいずれ死ぬわけであるから、体のあらゆる部分が同じように劣化してくれれば、ある日枯れ木が朽ち果てるように死を迎えることができるのではないだろうか。心臓とか脳とか胃腸とかある特定の部分の不具合によって死ぬことは全くもって不本意なことである。したがって、その不本意を防ぐために医療が存在するわけであるが、医療というのは、所詮対症療法でしかない。機械ならば劣化部品を新品と取り替えれば寿命は間違いなく延ばすことが可能であるが、人間の場合は、たとえば一つのガンを手術により取り除いても、免疫力が低下しておれば何度でもガンは再発することになり、寿命が延びるのもほんの一時しのぎでしかない。したがって本当の医療というのは、ガンが出きないように免疫力を高めることでなくてはならないはずである。ガン予防には何を食べればよいかについては、さまざまなものが知られているが、決め手になるものはない。むしろストレスを避けるとか、笑いこそがガン予防に最適とさえ言う人がいるくらいだ。

 ガン以外であっても、体のあらゆる部分は年齢とともに劣化して行くわけであるが、部分的劣化を部分的トレーニングで強化できないものだろうか。

 最近、痴呆防止には日常頭を出きるだけ使うとか、指先の細かい作業がボケ防止に有効だとか言われるようになってきたが、体のあらゆる部分もトレーニングが必要なのではないだろうか。

 たとえば、アルコールは週に2日は呑まないことで、肝臓に負担をかかけないようにと、健康診断時に担当医から指導を受けるが、果たしてそうだろうか。体が毎日所定量のアルコールを処理できるようになるためには、習慣化することの方が大切ではないだろうか。もちろん一日に処理できないほどのアルコールを摂取することは問題であり、週休2日したからといって気休めでしかない。

 睡眠でも勘違いしている人が多い。ウィークデイは寝不足ぎみだから、週末の休日に寝だめをして健康を維持していると言う人がいるが、睡眠こそ習慣化が必要であるのに、毎週週末に習慣化を乱しているために、いつも寝不足感がぬぐえないことになる。

 ナポレオンが3時間しか睡眠をとらなかったといわれているが、たぶん、習慣化していたのであろう。あるいは別に昼寝していたとかいねむりしたとかにより、帳尻を合わせていたのではないだろうか。健康でいられたというのは、習慣化の内容が過不足がなかったことの証明である。

 また、骨折して入院していると、筋肉が劣化してしまって、やせ細ってしまうそうである。

 このように、ボケ防止のための指先の細かい作業とか、休肝日とか、ナポレオンの睡眠とか、骨折したときの筋肉劣化の例に見られるように、人間の体は常にトレーニングが必要なのではないだろうか。

 これまで、過労とか、アルコールの取りすぎとか、睡眠不足とか、過剰の場合の弊害ばかりが強調されてきた結果、適度のトレーニングが無視されたために、それが病の引き金になっていることが、見落とされている。

 若い時代には特にトレーニングを意識しなくても、劣化がまだそれほどではないから気がつかないが、50歳から60歳と年をとるにつれて、劣化度合いを思い知らされることになる。私の例でいえば、腰痛、歯、関節痛、喘息、肥満、手足のしびれなどであるが、専門医の診断を仰いでも、いずれも対症療法でしかない。腰痛や関節痛に鎮痛剤を処方されてもどうしようもない。

 プロスキーヤーの三浦雄一郎氏は、65歳からのトレーニングでエベレスト世界最高齢登頂に成功した。いくら素質はあったとはいえ、70歳でのエベレスト登頂というのは、並大抵のはなしではない。それも、地道なトレーニングの成果だというから驚く。

 別にエベレスト登頂を狙うのではなく。単に死ぬその日まで健康な生活を送るというささやかな願いをかなえるためには、ささやかなトレーニングの方法があるはずである。

 現代人は文明の発展により、歩くことや食物を求めての狩もやらなくなり、疲労による身体的ダメージを受けることがほとんどなくなった。そのかわり、不規則な生活や精神的ストレスが多くなり必ずしも健康的な生活ではなくなった。だとすれば、各人が自分でその不足しているものを補わなければならないはずだ。たとえば、ぶら下がるという行為は実生活ではありえない。とすればその関係筋肉は退化しているはずであある。その筋肉が弱くなると腰痛になる筋肉であるとすれば、現代人はいつかは腰痛にみまわれ、その治療のため専門医の診断を仰ぐと、レントゲンをとり背骨に異常が認められない限り、鎮痛剤を処方されるだけということになる。若いときはともかく老人になってからの腰痛は寝たきりになりかねない。

 したがって、各自が自分に不足がちのトレーニングを実施するしかない。ところが、自分に何のトレーニングが不足しているかを知ることができない。最近はウォーキングが体全体のバランスのとれたトレーニングとして注目されている。水のなかでのウォーキングはさらに効果的だという。しかし、わざわざウォーキングをしなくても、ふだんの生活で全く歩かない人はいないだろうから、ウォーキングが全く不足している人はいないはずである。それでは、普段の生活ではどうしても不足してしまうトレーニングとはどんなものだろうか。そういうものがもしあったとするならば、それはたんなる筋肉トレーニングではなく、ウォーキングのようなバランスのとれたトレーニングのはずである。そんなトレーニングを模索していた折にPNFというものを見つけた。

 それは、平成5年のプロゴルフ「宮崎フェニックスオープントーナメント」で、ジャンボ尾崎が2位以下を8打差つけてぶっちぎりで優勝したときの、ゴルフ週間誌「パーゴルフ」で、ジャンボ尾崎が新たに取入れたトレーニング方法として、PNF(Proprioceptive Neuromuscular Facilitation )を紹介していた。

 それは、感覚、神経、筋肉を総合的に強化するトレーニングというよりは文字通りファシリテーションと呼ぶにふさわしいものであった。その内容はいたって簡単で、まず床にうつぶせに腹ばいになり、両手・両足を斜めにそれぞれ伸ばし、その状態から右手と左足を同時にゆっくりと床から1020cm挙げそしてゆっくり下げ、続いて左手と右足を同様にゆっくりと挙げ下げする。そのとき手先はしっかり伸ばしてその先を顔をそちらに向けてしっかり見ることが大切とのことである。これを8回繰り返し、次に仰向けにやはり同様に手足を斜めにしっかり伸ばした状態から、右肘と左膝を今度はゆっくりではなく瞬時に打ち付けるようにする。それを左右それぞれ8回行うというものだった。これは実施してみるとわかるが、左右どちらかがスムーズに行えないことがあるので、そのときはそちらを補助的に追加して行い、左右が同じようにスムーズに行えるようにすることが大切なようである。わずか数分でできる簡単な運動であるので、わたしは、朝目覚めたら布団の上で行っているが、腹ばいの運動を23回行ううちにはっきり目覚め、頭の中が澄み渡って行くのがわかる。

 私はこのPNFを腰痛対策として始めたものであったが、徐々に痛みはやわらぎ3ヶ月もしないうちに全快した。骨に異常のない腰痛は、腰のまわりの複雑な筋肉や腱がバランスを崩すことに起因することが多いから、筋肉と強化もさることながら、柔軟性も重要なはずである。そこで、PNFに加えて腰のストレッチを自分なりに考案した。

それは、あぐらをかいて足の裏を合わせた状態で座り、その状態から背筋をのばしたまま、ゆっくり前へ倒して行く。すると、不思議にも、最初は少ししか曲がらないのに、時計の針のようなゆっくりさかげんで少しずつ倒れて行き、数分のうちに額が足首にくっつくほどまでに腰が曲がることがわかる。このときあわてて反動をつけたり、痛いのを我慢して曲げるとかえって曲がらなくなる。むしろ腰の筋肉が伸びて気持ちがいいなあと思いながらゆっくりやったほうがよく曲がる。それがストレッチの基本らしい。

 さらにぶら下がり健康法も追加した。なぜならば、普段の生活のなかにぶら下がり方向の筋肉トレーニングは皆無だと思ったからである。始めた当初腕が抜けるようで、10秒と持たなかったのが、今は50秒ほどまで伸びた。

 おかげで、平成6年以来腰痛は再発していない。

 わたしの場合は腰痛対策として取入れたPNFだったが、その後あの日本初のアメリカ大りーガー野茂投手がアメリカに渡る前に、肩、肘ががたがただったのをPNFで乗り越えたと雑誌「文芸春秋」で読んだ。後にも先にもPNFについて目に触れたのはそれっきりであった。どうしてそれほど効果的なトレーニングが一般化しないのか不思議でならない。

 また、最近運動不足解消のためにボウリングをはじめた。やってみると、有酸素運動で5ゲームもやると汗びっしょりになり、ダイエット効果も抜群である。始めてまだ4ヶ月であるが、5kg減量できた。少しずつスコアもアップするので、張り合いもある。

できたら死ぬまで続けたいものである。そのためにはそのためのトレーニングも必要であろうが、今のところ膝強化のためのウォーキングと四股程度であある。

 次に栄養についてであるが、自分の体が何が不足しているのかを知ることは、なかなか困難なことである。特に、「人間は本能がこわれた動物である」といわれるとおり、自分の体が不足していることを感じ取ることができるのは、せいぜい腹が空いた、のどがかわいた、程度であある。ところが、牛や馬は牧場でも毒草を食べることはない。子供の頃実家で牛を飼っていたが、カイバ桶一杯の草をすごい勢いで食べていおるが、最後に毒草であるキツネノボタンだけが残っていたことを覚えている。

 象やライオンのような野獣に至っては、1年に1度特定の場所の土を舐めるために、はるばると旅をするくらいに、自分の不足しているものが何か、それはどこにあるかまで知っている。本能がしっかりしている証拠である。

 人間は不足しているものを感じ取ることができないから、普段食べないめずらしい食べ物を試行錯誤的に食べることくらいしかできない。ゲテモノ食いはこの類だろう。

 ゲテモノ食いの趣味がない人は、せめて自然界のものをまんべんなくそのまま食することが賢明だろう。塩も工業的に作られた食塩ではなく海水あるいは岩塩(ちなみに工業塩を食用にしているのは世界中で日本だけだとい)、砂糖は精白糖ではなく黒砂糖、米は精白米ではなく玄米、果物は皮ごと食するというように努めれば、かなり不足分は補われるはずである。これが医食同源の考え方であろう。さらにそれを体系化したのが、漢方だろうから、とにかく健康を維持するということでなく、特定の不調を改善するためには、漢方の専門医に相談することが懸命だ。

 日露戦争では2万人以上の戦死者を出したが、それ以上の脚気による死者が出たそうである。それは、兵士は白いご飯はお替わり自由で腹いっぱい食べられたが、おかずは自前だったために、わずかのおかずでたくさんの白米をたべたために、ビタミンB1が不足して、脚気に拍車をかけたのだ。現代ではビタミンはかなり知られているが、まだまだ知られていない食べ物効果が無数にあるにちがいない。テレビ「みのもんたのおもいっきりテレビ」では毎日、何の食べ物が何に効くということを紹介しているが、多すぎてとても覚えきれない。何でもまんべんなく食べるしかない。

 最後に精神的なものだが、ガンで余命幾ばくもないと医者に見放された患者が、せめて残された人生を自分の好きなことをやって過ごそうと、登山を始めたところ、ガンは大きくなるどころか、若干小さくなったとのこと。 また、最近あまり例がなくなったが、昔イボが出きる人が多かったが、それの治しかたは、世界中で100の地方には100の方法が伝えられており、それらがそれぞれ有効だとのこと、要するにおまじないである。それを信じるかどうかがが有効かどうかの決め手になっているということだ。

 宗教もその一種かもしれない。病気を治すために宗教にすがり、治らないのは信心が足りないといわれ、さらに宗教にのめり込む。その結果、病を克服し、神に感謝するということになる。、本当は病を治したのは自分自身なのだが、宗教のおかげとするところが、他力本願の考え方であろう。

 江戸時代に「養生訓」を著した貝原益軒は83歳で、健康を説くくらいであるから、大変健康であったが、長年連れ添った妻に先立たれ、すっかり生きる希望をなくしてしまい、長屋にこもりっきりになってしまった。近所からどんなに誘われても閉じこもったままになってしまい、その結果その半年後に亡くなってしまったそうである。生きる希望を失うということは、かくも寿命を縮めるという証左であろう。

 このような例をみると、精神というものが、如何に健康に重要な影響を与えているかがよくわかる。病は気からというのは真理なのである。

 以上を総括すると、

  1. ファシリテーション(感覚、神経、筋肉を総合的に鍛える)
  2. 栄養(自然界のものをできるだけ幅広く、精製せずそのまま摂取する。ただし、特定の不調を改善する目的ならば、漢方医の門をたたく。)
  3. 気の持ち方(生きがいを持って生きる。それができなければ、他力本願でもかまわない。)

                        以上