キリスト教とイスラム教

 

 現代社会は大きく分けるとキリスト教社会とイスラム教社会とに分かれるような気がする。この対立の間に仏教社会がある。このことは宗教上の分類ではあるが、文化的な違いが根本にある。

 中世ヨーロッパにおいて何故十字軍なんていうものが起きたのだろうか。現代の世界を俯瞰するに、欧米社会とイスラム原理主義の対立は、十字軍が思い出されてならない。異教徒を討つというが、宗教上の対立というよりは、自分たちの支配が及ばないことへのあせりだったのではないだろうか。キリストの教えは本来博愛であったはずなのに、その愛を広く異民族に広めるのではなく、征伐してしまうというのは、キリストがもし生きていたらなんというだろうか。どんな理屈をつけようが許さなかったにちがいない。日本にやってきたザビエルも真のねらいは博愛衆に及ぼしにきたのではなく、日本征服にやってきたのだろう。そのように考えると、スペインがインカ帝国を滅ぼしたのも理解できる。亡ぼしておきながら、教会を建ててキリスト教を広め、現在に至っている。アメリカだってそうだ。凶暴なインディアンを亡ぼし、アメリカを建国してキリスト教を広めている。強いアメリカの大統領が敬虔なクリスチャンといってはばからない。

 右の頬をなぐられたら、左の頬を出す、というのがキリスト教だと子供の頃教わったことと、世界に残る虐殺の歴史とどうしても符丁しない。

 日本の歴史上のキリスト教弾圧は結果的に正しかったのかも知れない。それにしてもキリストの教えと帝国主義がどこで結びついているのかそのメカニズムがどうしてもわからない。

 先日、NHKテレビでイスラム世界を紹介していた。現代アメリカでキリスト教の信者がどんどんイスラム教に改宗しているという。その信者のいう理由は、「こんな私をイスラム教は普通の信者として受け入れてくれた」といっていた。この一言でかなり理解が進んだ。どうもキリスト教では誰でも優秀な人を神は認めなさるが、その頂点はむろんキリストであるが、現世ではローマ法王ということになっているのだろう。そのヒエラルヒーからいえば、黒人は奴隷、インディアンは凶暴な蛮族、黄色人は放って置くと危険な思想で何をしでかすかわからない民族と定義されているのかも知れない。これは結局白人至上主義(WASP)に行き着く。それ以外のどうしても思い通りにならないのがイスラム教徒。世界50億人のういち13億人もの勢力を持ち、ことあるごとに欧米の押しつけに反発するイスラムが憎くてしかたない。しかも、普通の民族だったら、カネと軍事力をちらつかせると、ほとんどの場合何とかなるのに、イスラム世界だけは思い通りにならない。なぜならば、一般の世界では、だれだって豊かさを求めているし、軍事力で圧力をかけられれば、誰だって命は惜しい。しかし、イスラム世界では、自分の幸せはアラーの教えにしたがって生きることであって、決しておカネで買えるものではない、としているためである。軍事的脅威に対してさえ、ジハード(聖戦)と称して死ぬことを決して恐れてはいない。日本の戦時中の名誉の戦死と全く同じである。

 このような思想は強権を持ってすれば何とか維持できるものの、現代のような情報化社会では、北朝鮮のような情報鎖国でもとらない限り、維持できるものではない。ところが、実態は、豊かな欧米文化をどんなに押しつけても、逆にイスラム原理主義は強まる一方である。しかも、単なる宗教ではなく、国そのものをイスラムの教えに従おうという、イスラム革命まで成し遂げる国がでてきた。そのような国にとっては、経済力と軍事力による支配はアラーの教えに背くものとして、絶対に許せないことのようだ。

 日本も振り返って見れば、江戸時代に鎖国を敷き、一国平和主義で300年間もやってきたものの、黒船の到来とともに、経済力と軍事力の崇拝主義に目覚めてしまった。一時は優秀ならば勝ち残れるという価値観から、富国強兵・殖産興業による八紘一宇を夢見たが、完膚無きまでに打ちのめされてしまった。それは所詮強い者が勝ち残る、一人勝ちの世界であったためである。

 戦後も経済力だけならば許されると思って頑張ってみたものの、やはり同じであった。どんなに貿易黒字でも国内は不況で息絶え絶えである。日米金利差を押しつけられ、蓄えはすべてアメリカに投資されて、アメリカ経済を支える役目を担わされている。あまりの仕打ちに、橋本元総理は、「外債を売りたいという誘惑に駆られることもある」という発言をしたところ、ニューヨーク株価は暴落するし、その筋から圧力がかかるなどで、直後に失言だとして取り消してしまった。 そのほかWTOで自由貿易を説きながら、反ダンピング法、特許論争や、東芝への欠陥品提訴で1100億円もの大金をせしめるなど、世が世なら戦争になりかねないようなことを、日本に押しつけている。こんな仕打ちに対して日本はただ支払いに応じるばかりで、なす術がない。もし反発でもしようなら、完膚無きまでにやられることを身を持って知っているからである。

 昨日のNHKの昼のニュースでも、アメリカの商務長官が、日本の公共事業に0,02%しか参入できなかったのは、非関税障壁があるからであって、それを改善しなければ、厳しい対抗措置をもって対処すると、堂々とテレビで発言していた。自分の思い通りにならなければ、どんな手段を持ってもやり通すという、アングロサクソニズム丸出しであり、しかも少しも恥じる様子がないどころか、誇らしげでさえある。われこそは正義であり、この正義に従わないのは悪であるから、それを征伐するべきであるという価値観であり、十字軍から少しも変っていないことがわかる。

 この価値観は21世紀にも通用するだろうか。少なくとも現状では世界を席巻している。グローバリズム資本主義としてである。日本も遅ればせながら、金融ビッグバンと海外資本の導入とそれに続くリストラの推進に余念がない。そして競争原理主義にむかって生き残りをかけたあがきを国中でやっている。すなわち、富を国民に広く配分して豊かさを分け合ってきた日本の体質にメスを入れ、富を国民に広くではなく、株主資本家に行くような正しい企業形態にするよう改革が求められている訳である。また、そうしないと企業は存続できませんよ、というのがグローバリズム資本主義の正体であるが、表向きは日本の高コスト構造は消費者が大きな損失を被っていますよ、ということになっているが、高コスト分はそれを受け取るのもまた別の国民であり、恩恵をを広く国民で分け合っているいることに意識的に目隠ししている。

 この価値観に真っ向から対抗しているのがイスラム原理主義ではないだろうか。 持てる人は持たざる人に施しを与えなければならないし、持たざる人も当然持てる人から施しを受けることができるという価値観は、自由な競争により誰でも億万長者になれるし、それは個人の能力の結果であり最も尊重されるべきだというキリスト教の価値観の対立が見てとれる。

 インドネシアのキリスト教徒とイスラム教徒の衝突、イランとアメリカの対立、ロシアとチェチェン、コソボも同様である。

 21世紀はキリスト教的価値観とイスラム教的価値観のせめぎ合いが、新たな冷戦構造を形成すると思えてならない。

 このような時代こそ日本の自然と人間の調和に価値観を置いた神道、非戦を説いた平和憲法などを世界に発信して、世界平和に貢献すべき時ではないだろうか。 このことは、あの偉大なアインシュタインが大正12年に来日した折りに、すでに予言している。

 アインシュタインの言葉(大正12年11月18日)より抜粋

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所くらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。

 そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

 相対性理論という人智を超越した理論を考えつく人のみが、人類の未来を見通すことができたと見るべきではなかろうか。アインシュタインの単なる外交辞令としてしまうのは、あまりに無責任過ぎないだろうか。

 たとえば、手始めに日本神道の体現者、昭和天皇の誕生日が「みどりの日」となっているが、これを世界の「みどりの日」とするように、国連に提唱すべきだとは、アインシュタインと同じユダヤ人のヘブライ大学教授、ベン・アミ・シロニー氏の意見である。