セイの法則

 経済学でセイの法則というのがある。他の条件が同じなら,生産はそれに見合う需要を生むという,至極当たり前な経済理論だ。ある工場で500台の車を作るとすると,賃金,材料,利益,税金などへの支払いという形で,その工場が生み出す収入は,直接間接に500台の車を売るための必要分に等しい需要を経済全体の中に生む。もし,生産性が上がり,600台の車が作れれば,自動的に600台の需要がーーーと続く。

 今,小泉改革が目指しているのは,この考え方であろう。(グレゴリー・クラーク=多摩大学名誉学長)

 しかし,セイの法則は他の条件が同じなら,という前提だ。もし,今の日本のように,経済に需要が慢性的に足りないとしたら,話はちがう。600台作っても売れなければ破産に直面する。

 日本の問題は効率の不足ではない。問題は慢性的な消費者需要不足だ,と指摘している。

 また,欧米では逆に需要過多から来るスタグフレーション(経済が停滞すると物価は下がるとされていたが,1970年代以降,欧米先進国では経済停滞と物価上昇が同時に進行する状況がみられた)が悩みであったため,これから抜け出すために,効率を強調する政策に転じ,民営化,自由化,小さな政府など,インフレなしに過剰需要に見合った商品やサービスの供給を図ることとした。

 日本の問題は,これと正反対。貿易収支は常に黒字であるし,1400兆円ともいわれている個人金融資産が示すとおり,効率化がはかれて物価が下がったからといって,消費が伸びるわけではない。

 こんな状況にあるにもかかわらず,欧米と同じ改革を行うと,効果は逆に経済再生ではなく,経済悪化を招くおそれがある。改革の痛みが一過性の問題ではなく,致命傷になるおそれさえある。

 無駄な特殊法人を整理してそれに代わる有効な特殊法人を作って,より需要を喚起する業務を作り出さないかぎりは,経済は悪化するに決まっている。ところが,万年需要過多の欧米とちがい,どんなにお金があっても消費拡大につながらない日本では,効率化はただ単に失業の増加とGDPの低下しか生み出さない。作っても売れないからである。

 各家庭で,一家に1台以上の乗用車,パソコン,携帯電話,何台ものテレビ。これ以上何が消費を引っ張るのだろうか。住宅でさえ,今後の少子化を考えると,近い将来過剰になる。すなわち,現代日本においては,社会の無駄をなくしたからといって,その分もっと他の有効なところにお金が使えるようには決してならないということだ。もっと他のところはもっと無駄なところになってしまうからだ。最近の公共事業悪玉論がこれだ。河口堰,干拓事業,高速道路,本四連絡橋,東京湾横断道路,農道空港そして,長野県の田中知事の脱ダム宣言とみな同じ構造だ。自民党の公共事業見直し論も230カ所について見直すといっても,見直した結果は,もっと不要なところということになろう。なぜならば,優先順位の高いところから予算化してきたという大前提があるからだ。

 したがって,もし見直しを行うならば,より優先順位の高いところへ見直すのではなく,従来の優先順位の考え方を変えるしかない。

 ところが,見直しを行うのは政府であり,自治体であるから,同じ政府と同じ自治体で見直しを行っても,同じ結論しかでないことは火をみるより明らかである。

 最近の特殊法人整理民営化論議は,将にこれである。ただ,田中長野県知事の改革はちがった価値観の持ち主が知事になったから,それまでの路線とはちがう政策を出すことができたが,議会から猛反発を食らってしまった。田中知事も県議も選挙によって民主的に選ばれた代表であるから,大いに議論してほしいところである。

 ただし,民主的な選挙といっても結局利益団体の代表でしかないから,従来の価値観から脱することは極めて困難といわざるを得ない。昔の政治家は地元への利益誘導というよりは,天下国家を論じてくれたと懐かしがる人もいるが,その同じ人間が一方で住民投票こそ民主主義の原点といってはばからない。人間はなんと自分勝手なものか。

 そんな自分勝手な人間の集合が今の日本を作っている以上は,その自分勝手を最大の価値観に据えなければならないことも真理である。

 すなわち,ほしいものはもうそんなにないのだから,消費拡大しか経済発展が望めないような社会形態を捨て去ればよいのだ。経済発展がなければ職にもありつけず,生きてゆくに必用なお金を稼ぐことができなくなるが,お金を稼がなければ生きてゆけないような社会形態をやめればよいのだ。いってみれば助け合いの社会である。

 現在の社会だってしょせんは,貨幣を通して分業というの助け合いの社会であるのだから,そんな大それた改革ではない。ただちがうのは,現在の日本のように,いくら自由経済といえども,商工ローン日榮の松田社長のように,とても一代では使い切れない3000億円もの大金を持ってしまうというシステムを変えることだ。アメリカでは,あのビル・ゲイツは日本円にして11兆円を寄付したというニュースがあったとおり,均平化する機能が存在する。日本においては,金持ちはさらに金を稼ぐだけであるところがちがう。

 そういうちがいがあることを認めつつ,然からばどうするかということを考えると,法律で縛るしかない。これこそはグローバリズムと正反対の思想ではあるが,日本のマクロな経済の未来を俯瞰すると,やむを得ないのではあるまいか。こういうのを天下国家を論ずるというのであるが,その張本人たちは松田社長と同じ思想の持ち主だということを思うと何ともやりきれない。

 “目ん玉売れ,腎臓売れ”で有名になったが,その松田社長は国会で“私どもはボランティアではありません。やはり,借りたお金は返すべきではないでしょうか”と証言した。そして,社員にはさらに厳しい取り立てを指示したことだろう。

 もしそのとき,松田社長が自己資産3000億円のうちのいくらかを社員たちに分配したりしていたら,あれほどひどい取り立てはなかっただろうし,松田社長の資産も3000億円には達しなかったかもしれない。そして,中小企業のいくつかも倒産を免れたかもしれない。そういう社会は無駄も多いだろうが,一人の人に3000億円もの資産を築かせるような競争原理だけのために,そんな悲惨な社会にしてしまってよいのだろうか。

 小泉改革が目指す改革はそうではなく,民間の効率的経営手法を取り入れることにより,ほんとうの無駄を省くことであるというだろうが,前述のとおり,改革を進めれば進めるほど雇用は失われ,消費は冷え込む。民間の効率経営というのは松田社長の経営そのものだからである。ただ程度の差があるだけだ。

 その結果経営が立ちゆかなくなった企業,たとえば,長銀,宮崎シーガイヤ,山一証券といった超優良企業(だった)は,外国資本に二束三文で買いたたかれて,売り渡す羽目になってしまった。それは,ずさん経営(松田社長式経営ではなかった)の結果であるからしょうがないということになっている。

 あれだけの資産を二束三文で買えるなら,私だって買いたい。買ったあとでもう少し高く売り払えば儲かるからである。ただお金がなくて買えないだけだ。

 ところが,お金がなくても買える人がいる。それは借金して買えばいいだけだ。そのお金を供給しているのは,日本の金持ちがアメリカに投資したものがめぐり巡って,日本の不良資産を二足三文で買いたたくという図式が成り立っている。

 この図式は近代では第一次世界大戦後のドイツに例がある。当時,超インフレ(1ドルが7兆マルクを越えた)のため,国内資産の8割以上がユダヤ人の所有になってしまったという。インフレでなくても不良債権というバーチャル?な理由で買いたたかれれば,当時のドイツの二の舞にならないともかぎらない。

 これらの矛盾とも思える非合理は,すべてグローバルな貨幣経済にその元を発している。お金がないならともかく,1400兆円もの個人金融資産を保有しているなら,これ以上稼ぐところに価値観を置くのではなく,お金がなくても立ちゆくような価値観に転換すべきではなかろうか。現に,アメリカは,貿易は万年赤字なのに空前の好景気が続いている。

 アメリカは効率経営によって好景気を手に入れたのではなく,日本が稼いだお金を自分に取り入れる戦略をもって実現したのだ。それに対し,日本は,どんなに稼いでもそれは使い切れないのでアメリカに投資せざるを得ない。その結果,国内景気は冷え込んでしまって,生き残りをかけてさらに効率経営を目指すしかない。そしてそれは事態をさらに悪化することがわかっていながら,小泉改革に賭けてみるしかない。

 なんという矛盾。貧しいながら,楽しい我が家というのはほんとうに許されないのだろうか。