終戦記念日に思う

 

 ことしも終戦記念日を迎えた。終戦後56年経過したが、毎年この時期になると、あの戦争は、本当に避けられなかったのだろうかという疑問が湧く。国力からも、軍事力からもみても、勝つ見込みはないことはわかっていたはずである。しかも、昭和天皇は親英派で、明治天皇の御歌「四方の海 みなはらからと思う世に など波風ぞさわぐらん」を引用し、何とか戦争を避けようとされた。そして、歴史の裏に押し込められて知られていない話であるが、戦争回避のためにあのハル国務長官と事前に必死な裏交渉をした人もいたのだった。それは岩畔豪雄という人物で、当時軍務局の武藤 章(後のA級戦犯)課長の部下であった。戦争勃発の1年半ほど前の昭和154月にアメリカに派遣され、あのハル長官と、あるホテルの一室で直に交渉を行ったのであるが、それをセットしたのは、ユダヤ財閥シフ家の私的銀行に籍を置くイギリスの諜報員であった。シフ家といえば、日ロ戦争の戦費を調達のために、イギリスに赴いた高橋是清に対して、国債の半分500万ポンドもの融資を申し出てくれたのもシフ家の者だった。その後の杉浦千畝のユダヤ人救済のビザ発行など、日本人とユダヤ人とは少なからずの縁があるからだろうか。日本とアメリカの戦争を、何とか回避したいという、ユダヤ人特有の裏工作だったのかもしれない。

 ハル長官も、自分の座っていた椅子を岩畔に勧めるほどの、厚遇で迎えたようである。その後1年ほどの交渉で「日米諒解案」を作成し、在米日本大使館にそれを示し、それを本国の承認を得るよう求めた。その内容は、満州は認めるが南方への進出は、国際平和を旨とすべきということとともに、輸出は石油、ゴム、鉄、ニッケルなどこれまでと同様に維持することが盛り込まれていた。交渉の過程でその個別の品目まで入れるかどうかで、難航したが、日本側の強い要望が取り入れられたと、手記に残されている。

 その「日米諒解案」を本国に打診したところ、ちょうどその時期、松岡洋右外務大臣が日ソ中立不可侵条約を結んで帰国した時だった。アメリカ側の示した期限が迫っており、急を要していたので、近衛首相は閣僚の外国からの帰国時には出迎えはしない慣わしがあったにも関わらず、立川飛行場まで出迎えに行っている。そして車の中で「日米諒解案」についてどんなに説明するも、聞く耳を持たない。仕方ないから首相官邸で打ち合わせを約したが、方々への挨拶を終えて官邸に着いたのが、夜9時を過ぎていた。ところが、この度の日ソ中立不可侵条約の自慢話が続いて、とうとう「日米諒解案」は、そんなものは時間をかけてゆっくり検討すればよいとの松岡意見に押し切られてしまった。

 アメリカとしては、ドイツがソ連侵攻開始まえにどうしても「日米諒解案」を決めておきたかったようであるが、間に合わなかった。以降、アメリカの態度は硬化し、近衛首相がハワイにおいての日米交渉を提案するも、無視され、とうとうあのハルノートが発せられることになる。

 そのハルノートも読んでみると、内容は「日米諒解案」とそうは大きく異なっていないが、貿易品目については削除され、南方への進出は、日本がすでに開始したあとであったから、いまさら引くわけにはいかないから、到底受け入れられない最後通牒と受け取ったのであろう。しかし、そのハルノートでも満州までは認められていたというのが、その後の国会での近衛首相の答弁からも明らかであった。

 日本は石油の禁輸で、しかたなく南方への進出によって石油を求めたことになっているが、事実は、石油の輸入を保証された「日米諒解案」を蹴って、南進を開始していたことになる。

 何故それほど戦争を拡大したかったのだろうか。そもそも日独伊三国同盟自体が、他国を侵略して領土拡大の帝国主義の思想だった。いわゆる「バスに乗り遅れるな」である。それを強く押し進めたのが、新聞ラジオである。一般大衆は新聞の扇動的記事にその気にさせられた。ドイツも戦争犯罪をすべてナチスのせいと責任転嫁しているが、それを当時熱狂的に支持したのは、新聞やラジオで煽動された一般大衆であったはずである。

 そう考えると、新聞、テレビなどのマスコミの責任は極めて重大と言わなければならない。政府の責任、戦犯の責任というが、本当はマスコミの責任がもっとも大きいのではあるまいか。報道は事実のみを報じ、判断は受け手に任されるはずだが、100人斬りの記事のように、事実どころか煽動記事まで横行した時代だから、煽動されてしまうのも、むべなるかなである。

 そして戦後は東京裁判で戦争犯罪が裁かれることになるのだが、ドイツのユダヤ人虐殺のように、戦争とは関係ない犯罪が裁かれるのは理解できるが、戦争そのものが裁かれるのは何の正義もない。A級戦犯とは戦争を起こした責任が裁かれたものである。A級というと最も重い犯罪のように思われているが、実際は東京裁判においてもドイツを裁いたニュルンベルグ裁判の裁判方針、a,世界平和に対する罪、b、通常の戦争犯罪、c、人道に反する罪の3方針のうちのa項を指しているのであって、罪の重さの尺度ではない。しかも小文字であって、大文字ではない。日本の戦争犯罪で最も強く指摘されているのは、その残虐性であるが、100人斬り事件はその後の調査でねつ造であることがわかったものの、残虐性があったことも確かのようである。その理由は、中国の当時の戦法は正規軍対正規軍の戦いよりも、ゲリラ戦法が主だったことも影響したようだ。農民が突然爆弾を仕掛けたりすると、その者たちに対し、見せしめのため残虐にならざるを得なかった事情もある。これも戦争が悲惨を極める要因になっているので、国際法では、戦争はその旗を明確に掲げ、一般人と明確に見分けがつく服装で行うことが定められている。

 戦争が終わると、新聞は手のひらを返したように、戦争罪悪論を掲げ、それがさらには戦前日本罪悪論まで進み、近隣諸国に謝罪を繰り返している。特に朝日新聞のそれは極端である。これもまた、戦前の煽動と同様に国の方向を誤る要因となるので注意を要する。

                     終わり