小泉改革の痛み

平成13年7月

 参議院議員選挙戦たけなわであるが,各政党とも改革を旗印にしている。そういえば,土光臨調から改革が叫ばれていた。そして,構造改革を強力に推し進めようとした橋本内閣は,構造改革法案を凍結までして景気対策を優先してしまった。続く小渕内閣では景気対策優先として改革は消えてしまった。

 今小泉改革の目玉となっているのは確か,郵政三事業の民営化だと思っていたら,この度の参議院選挙ではこの言葉は消えてしまい,単なる「聖域なき改革」になってしまった。

 郵政三事業の民営化はできないということがわかったからであろう。

 それに替わり道路特定財源の見直しが出てきたが,これさえ自民党内部からも強硬な反対がでておりむずかしくなってきた。

 どんな改革でも,改革と言うからにはムダが多い,すなわちそのムダの恩恵に浴している人たちがいるわけだから,その人たちから必ず反対が巻き起こる。しかも,その人たちは利権をまもるために政治献金や選挙における票の力を行使するため,基本的には自民党政権を支えることになる。ところが,この度の総裁選では自民党員が小泉を選んだということはいかに改革への期待が大きいかがわかる。しかし,言われているように,改革には痛みが伴うが,その痛みとは,不良債権を整理したり,遊休特殊法人を整理するなど社会システムが効率的になることであり,直接には自分には振りかからないと思っているふしがある。

 ところが実際は,ムダがはぶかれるとムダ使いがなくなる,すなわち,消費が冷え込むことになる。それでなくても需要が減退してりうところへ,さらにムダまで取り去ろうとしているわけだから,問題は深刻だ。ムダを省けばもっと意義あるものに消費がまわることが期待されているようだが,そのようなものの需要はいってみればエンゲル係数のようなもので,貧しい時にはほしいものがたくさんあるものの,現代のように豊かになって,欲しいものはだいたいそろってしまった日本においては,残された需要は昔の常識からすれば,ゼイタクとかムダといわれるものしか期待できない時代になった。こんな時代にムダを省いて効率化をはかっても,背広の値段が半額になっても消費が伸びないのと同じで,景気回復の牽引力にはなり得ない。今の日本は半額ハンバーグや百円ショップが幅を利かせているが,,これが日本経済を引張ることにはならない。一時的に消費は伸びてもたちまち充足されてしまうか,飽きられるかして,むしろ経済はデフレスパイラルを加速する恐れさえある。

 小泉改革はいってみれば日本中を百円ショップかユニクロ,ハンバーグ国家にしようとしているのではないか。その会社の経営者はたしかに巨額の売上と利益を確保するだろうが,従業員は過酷な労働と安月給で奴隷のようになるだろうし,ましてや,勝ち残り企業以外の会社や従業員は路頭に迷うことになる。失業者がお上の指導のもとに特殊法人をつくり,曲がりなりにも所得にありつくことは改革の精神から絶対に許されない。特殊法人でなくても,ベンチャー企業を起こし,何かを作り出そうにも,世の中はムダを許さない風潮から,新たな付加価値を創造することはきわめて困難になる。

 小泉改革の痛みとはこのようにほんとうはデフレスパイラルに陥ることなのだ。それでなくてもデフレスパイラルが取り沙汰されているときに,それを加速させる改革をなぜ日本中が望むのだろうか。

 それは,現在の閉塞感を打開するには改革しかないと思い込んでいるからではないだろうか。

 この閉塞感は近代日本で前例があった。太平洋戦争前,ABCD包囲網で石油は輸入できない,日本の移民はアメリカでひどい差別を受けるなどで,何とかこの閉塞感を打開したいものだと,一気に戦争に突っ走ったあの時代にそっくりである。戦争が改革に置きかえられているだけである。あの時代も閉塞の原因は経済不況だった。しかも,デフレスパイラルによるところまで同じである。結局戦争という膨大なムダを消費してはじめて世界はデフレスパイラルによる不況を乗り切ることができたのだ。

 したがって,もし歴史に学ぶならば,ムダを省いて生産効率化による供給力の強化ではなく,いかに消費を増やすかこそが改革でなくてはならないはずである。まさかこの時代に第三次世界大戦と言うわけにもいかないから,大量消費といっても,大量なモノを作って使い捨てにするのではなく,リサイクル,環境改善とかに多額のカネを使うことだ。古紙やペットボトル,ビンに始まり,家電,自動車まですべてリサイクルし,さらに,エネルギー使用量削減のための高効率機器の採用,自然エネルギーの活用など,21世紀の課題に対して世界規模の大戦を挑めば,消費は拡大し,しかも持続可能な発展が期待できるだろう。これこそ本当は革命のはずだが,残念ながら実現はできないだろう。なぜならば,価値観がちがうからである。現代の価値観はお金至上主義であるから,社会のあらゆる活動はお金儲けにつながらなければ存続できないようになってしまっている。小泉改革でも,整理した特殊法人に勤務したり,注文を受けて糊口をしのいでいる人たちは,その後どのようにして生きて行けというのだろうか。職業教育を充実するというが,その先に有利な職が保証されるわけではない。その先自体もリストラの真っ最中だろうからである。

 特殊法人が税金のムダ使いしていることがそんなにわるいことだろうか。そのムダを省けばリサイクルとか環境改善にそのお金がまわるだろうか。道路特定財源の一般化さえ反対が多くてできないでいるのに,特殊法人を整理なんてできるはずがない,省庁再編のように,単なる合併整理に終わることは目に見えている。

 社会が進歩して国民の大多数が欲しいものは大体手にするような時代には,国規模での浪費がないと経済は回転しないのは,前述のとおりである。特殊法人だって,国が豊かになる過程で,そのムダを作り出してきたというのが正直なところではないのだろうか。

 ただし,不景気になってくると,経済的に追い詰められてきたまじめな生産活動に精を出してきたものから見ると,ぬくぬくと税金をムダ使いしている輩をどうしても許せない。

 いわゆる,やっかみというやつでもっとも人間の内面でやっかいなシロモノだ。

 したがって,不良債権処理が,いつのまにか特殊法人整理ということになってきてしまった。不良債権処理というのは本来借金の清算だったはずなのに。

 それらをひっくるめて,改革,改革の大合唱となっているように伺える。

 わたしの思う改革は,ムダを省くことではなく,むしろ人類が本来求めている(お金ではない)ものに価値観の基準を移し変えることだと信じる。それはこれまでの常識からすれば壮大なムダかもしれない。そしてそれをもとめて若者が未来に夢を託せるような価値観を創造することだ。

 そんな見方をすると,特殊法人でさえ,一昔前には,若者が勉強をして一流大学を出て官僚になり,定年後は特殊法人に天下りして,悠悠自適な人生を過ごすという夢を与えてくれたことは否定できない。そんなくだらないことさえ若者に夢を与えられるならば,地球環境改善に尽くすとか,世の中の人たちに感謝されるしごととか,青少年年を育成するとか,喜びを与えるエンタテイナーとか,高度な喜びが得られるものがいくらもあるはずだ。

 そういうものを社会がもっと評価するような改革こそが改革ではなかろうか。そのときに,不景気だなんということはどうでも良くなるはずだ。あの戦後何もなかった時代を思えば,モノ余りの現代に何ゆえ,ムダを省き,効率化を計る必要があるだろうか。

 改革が順調に進めば,生産活動はすべて中国など土地も人件費も安い国にすべて移行し,国内でも労働はすべて外国人ということになりかねない。改革とは結局グローバリズムだから,世界中が均一化するまでは発展が進むことを覚悟しなければならない。その時こそ,地球が滅亡するときだろう。中国やインド,アフリカが日本やアメリカ並に発展したときを想像すると,身の毛がよだつ。中国やアフリカなどが貧しく教育もままならないからこそ,文明が発展しないのであって,日本だって少々のムダがあって発展を阻害されても,地球規模で考えると,世界に貢献していると見ることもできる。COP6が開催されたが,地球の発展を如何に遅らせるかが,地球規模の課題である。無論,発展もして環境も改善することが良いことに違いないが,先ずは発展を遅らせることが近道だ。かのホーキング博士はこの地球はあと1000年以内に滅亡すると予言している。発展を求める限り,1000年といわずに,百年以内に危なくなるだろう。これまでの100年を思い返してみるが良い。発展は加速度的に進展することはまちがいないから,百年先はとんでもないことになる。それは,発展という同じ価値観の延長上にある限り確実に起こることだ。

 それを止めることこそがほんとうは改革でなくてはならない。それは価値観の転換しかない。テレビで南方の未開民族が森の恵みを得ながら,裸でみんな仲良く暮らしている様子を見るにつけ,文明とは本当に人間に必要なものだろうかという疑問を持たずにいられない。