ビジネスモデル

 ビジネスとはお金を稼ぐ手段であり、昔は貨幣というものが存在しなかったから、基本的には物物交換が主体であった。ところが、労働・使役のような物ではないサービスとの互換の必要性から貨幣というものが誕生した。その貨幣は物と物,物とサービス、サービスとサービス、と、あらゆる互換(取引)を可能にするとともに、それ自体を蓄積ができるばかりか、実際には保有していなくても、その権利だけを保有するようになり、やがては、その権利が一夜にして国を滅ぼすほど消滅するという事態を引き起こすようになってしまった。個人では夜逃げあるいは自己破産である。

 現在の日本では個人金融資産は数年前には1200兆円といわれていたものが、最近は1380兆円にも増加している。その一方で、バブル崩壊後の平成不況は深刻さを増し,企業倒産が相次いでいる。宮沢財務大臣は「日本経済は破綻状態にある」との発表をした。

 このような深刻な不況のなかにあって、個人金融資産はどんどん増加している理由は何なのであろうか。

 卸売り物価の下落傾向にあるなかで個人消費が冷え込んでいるいわゆるデフレスパイラル傾向が生じているはずなのに,個人金融資産は増えつづけているのである。

 本来、企業倒産が相次ぐほど不況になれば、個人所得も減少するはずなのに、逆に個人金融資産は増加しているということは、物の製造とか、従来の銀行、証券などの実経済部門は不況だけれど、それ以外(実体は知らないが,強いていうなら裏経済)は好景気だとしか考えられない。いってみれば、表経済の富がどんどん裏経済に吸い取られているという図式だ。これの実例としては,日本の金余りがアメリカに流れ,アメリカの好景気を支えている、ということはよくいわれている。しかしこれだけでは、個人金融資産が増えつづける理由にはなっていない。

 個人金融資産というと、いつも一人当たりいくらと平均で考える傾向があり、日本人全体の現状を表現していると考えがちであるが、身長・体重のようにほぼ正規分布に従うという前提があればよいが、そうでない場合には平均で考えることはかえって実態を見誤るおそれがある。特に、市場原理にもとづいた自由競争のもとでは、確かに、機会だけは均等に与えられる方向にあるものの、富は均等どころか、強者必勝のますます偏在化する方向にある。すなわち、弱者は製造、銀行、証券などの従来型産業で、勝者はそれらの表経済を食い物ににしている何物かだとうことになる。

 その一つとしてヘッジファンドがよく話題に上る。世界中から資金を集め,それをもとにデリバティブにより巨額の利益をあげる投資会社である。

 しかし、これについても、だれがやってもよい取引であるから、自由競争の世界だということになっている。大和銀行のニューヨーク支店の井口氏が巨額の損失を出した事件、イギリスの王室の資産管理をまかされているベリングズ社を倒産までさせた取引などみなデリバティブである。

 そんな深刻な事態を招く取引などは禁止してしまえばよいのだが,先物取引に伴うリスクをビジネスとして取引の対象にするというまことに真っ当な目的を持ったものである。

 しかもその起源は江戸時代の大阪商人が米の取引にあたって、先物のリスクをヘッジしたことに始まり,また、デリバティブ理論でノーベル賞をもらったブラック、ショールズ両氏の論文の基礎理論は日本の京都大学の伊藤博士の「伊藤の式」が元祖だという。

 こんなことを考えると,日本人が本気でこのデリバティブに取り組めば,それこそ世界中の資金を手にすることも可能ではなかろうか。ただし本気で取り組めばという本気こそが実は問題である。よいものを安く作るということは、本気で取り組んだ結果,世界一のレベルまで達することができた。それへの対抗手段として生まれたであろうデリバティブに対して、果たして同じような努力が通用するだろうか。単純な株の世界でさえ、ヘッジファンドの空売りに翻弄されたのはつい最近のはなしであった。空売りの世界は,株式の目的である業績の期待できる株が買われ、期待できない会社が売られるという真っ当な取引を超えた取引である。すなわち、業績が株価をリードするのではなく、取引が株価を支配し、そして、支配した者が儲けを自分のものにできるという図式になっている。

 しかも、残念なことに,この空売りのお手伝い(空売り対象の株の一時貸し出し)をしていたのは日本の機関投資家だったという。いってみれば、日本に攻め込んでくる外国軍に兵糧を提供してわずかばかりのお金を稼ぐということに似ている。

 こんな実体にあるなかで、果たしてデリバティブに勝ち残れるだろうか。

 ここでデリバティブ理論を展開するのはわたしの本意ではない。

 デリバティブに例をあげたのはビジネスモデルの極致と見たからである。

 ビジネスモデルとは金儲け手段であり、それは今や,特許となり得るばかりではなく、ノーベル賞の対象になり得るほどになってしまっている。

 このビジネスモデルは合理的であればあるほど、世の中に受け入れられ広まる代わりに、旧来の産業形態を破壊して行く。そのとき旧来の産業を守ろうとすればするほど、傷は大きくなり時には倒産に至る。如何に早く取り巻く情勢の変化を見極め、自己革新を図るかが,生き残りの条件となっている。

 しかし、どんなビジネスも、そのものなりサービスなりに対価を払ってもよいという需要が存在しなければありえない。その需要というものは究極的には個人であるが、その個人は企業人であるところが問題を複雑にする。いってみれば、自分に必要なものを自分が会社に行って生産しているという自給自足の状態にあるのだ。そして、その生産コストを最小限にしようと努力をしており、人件費節減したり,海外の格安な資機材を調達することになる。その結果,リストラされ、資機材納入会社は倒産ということになる。これらのリストラ社員や倒産会社の社員は新たなビジネスモデルの方へ流れて行く。そして、結果的に産業の合理化・効率化が達成できるというわけである。

 しかし、この図式もすべては最終個人需要に基づく消費があってこそ成り立つはなしであることはいうまでもない。

 今,個人の資産は十分過ぎるくらいあるのに消費が冷え込んでいると言うことは、消費したい人はお金がなく、ほしいものがない人がお金を持ってしまっているということであろう。ほしいものがないというか,使い切れないほどお金を持ってしまっているということであろう。1380兆円にも上る個人金融資産は、わずか50万人、多く見ても100万人ほどの人が所有していると聞く。一人当たりにすれば,13億円にもなる。しかも、老人がほとんどということであれば、消費に回るはずがない。

 このような事態を放置して,必死に新たなビジネスモデルを求めることは,事態をさらに悪化することになりかねない。

 ユニクロ、百円ショップ、半額ハンバーガーがもてはやされているが,世の中は,「貧すれば貪する」にまっしぐらという感がある。これで果たして21世紀の日本人に幸せで文化的な生活が期待できるであろうか。

 これまでの日本は「一億総中流」であったのに、21世紀は衣食だけには事欠かないその日暮らしの生活に満足しなければならない。そして一方で何十億円もの使い切れないお金を、金利0で単に保有しているだけの一部の金持ちとの二極分化が進むことだろう。

 これこそがグローバリズム資本主義のなれの果てであり、それを推進するのが,ビジネスモデルであろう。生き残りをかけて新たなビジネスモデルをもとめ、その結果,上記のような結果を招き、その傾向はますます募っていることが、個人金融資産の増加の裏に見てとれる。

 供給が需要を上回るということはすでにその域に入っていることをうかがわせる。

 一説には30%ほどの供給力過剰だという。その余力を海外へ向けようとしているが、その海外も結局は購買力の問題に突き当たる。やはり、需要とその購買力に依存せざるを得ないことに変わりはない。

 古来、人類はこの問題に悩んできたようだ。古くは、エジプトのピラミッド、中国の万里の長城、新しくは,シベリア鉄道。いずれも奴隷や捕虜の過酷な使役によって築かれたとされているが、逆に見ると,捕虜を殺してしまうのではなく,有効に使おうとしたところに意味がある。すなわち、過酷な労働に対し衣食など必要な対価を与え有効活用したわけである。しかもピラミッドの場合、王の墓とはいうものの、必需品ではない。必需品でないものにあれだけ大規模に労力をかけられたということは、それだけ権力が強大であったからといわれているが、最近になって,労働者たちが、過酷な奴隷の使役ではなく、幸せな分化生活を営んでいたことが明らかになったと報じられていた。このことは、たとえ無意味なものでも、ピラミッドをつくるということを通してさまざまな需要が生まれ,また労働者の生活のための収入と物資の確保など経済が循環したことだろう。いってみれば、ケインズ経済圏が成立していた節が伺われる。

 近年、ケインズは死んだといわれているが,需要と供給を根底におかない経済は悪魔でしかない。本来人類を幸せにするために考案された貨幣が一人歩きして、貨幣に翻弄される最近の情勢を見るにつけ、この辺でガラガラポンでケインズ経済圏を取り戻せたらよいのだが、生き残りを目指す限り、新たなビジネスチャンスを求めて戦わなければならない。そして、そのことは事態をさらに悪化させる。

 この連鎖を断ち切るには,コストダウン競争ではなく品質向上競争、人件費節減ではなく雇用拡大と給与増加、株主重視ではなく従業員重視、個人業績ではなくチーム業績、能力主義ではなく家族主義、等々。何のことはないこれまでの日本的経営そのものではないか。この日本的経営はグローバリズムの価値観に敗れ去ったことになっているが、ものつくりという実経済ではジャパニーズ・アズ・ナンバーワンとはやされ、勝負がついていたのだ。それが、バブル,超円高、バブル崩壊、ヘッジファンドの餌食という外力に敗退したのであって、人間、労働、経済,環境などトータルの向上では負けていなかったのだ。

 あらたなビジネスモデルも雇用が拡大し,個人所得が平均的に増加するようなものならば、明るい未来が約束されるが、一部の勝者が巨額の富を得て,多くの一般庶民がユニクロ、百円ショップ、ハンバーガーで生きて行くしかないのでは、お先真っ暗である。

 たとえば、ダムを作りその電気でアルミ精錬工場を作り、完全オートメーションにより巨額の利潤をあげ、その税金で地元は大いに潤ったとしても、農地を奪われた多くの農民は単に移転補償費を食いつぶして生きて行くしかないという開発はどこかまちがっている。

 これはカナダのジェームスベイ水力開発の例である。確かにお金の合計は増えたが,それによって生活が豊かになった人はごく一部の人だけという図式である。そして、あぶれた農民はさらにあらたなビジネスチャンスを求めなさいということになっている。

 そして、別の場所でまた同じことが繰り返され,無目的に単に生きているだけの人はさらに増産される。

 むかし、日本には「一隅を照らす」という言葉があった。大した仕事ではなくてもほそぼそと社会に役立つ仕事を続け,わずかのの収入ながらその範囲内で、それなりに幸せに生きていた人々のことである。

 つい最近までの日本の企業ではチームとしての生産性が問われた。チームの中には優秀な口八丁手八丁のメンバーもいれば、無口だけどじっくりと仕事を遣り抜く地味なメンバーもいる。そして、中には,口も出さなければ,手もださない、いるのかいないのかわからないのや、文句ばかりで何もしないのまで、千差万別であった。ただチーム全員がある目標に向けてそれなりに貢献していたのだ。各メンバーはそれぞれおれがあの仕事をやったという誇を持っていた。このやり方で日本は世界一の生産性を実現したはずである。それが今、不況の真っ只中にいるのは、日本企業のムダや規制の多いやり方が,市場原理主義のやり方に敗北したのではなく、ただアメリカの戦略とマネーゲームに負けただけなのだ。

 そして、生き残りのためには、日本式経営を捨てて、合理的な競争原理主義に変革を図らなければと、日本中が躍起になっている。しかし、これは上述のとおり、従来ほそぼそやってきた会社を倒産させ、一部の会社だけが生き残ることに拍車をかけるだけである。

そしてトータルとして日本国内において、仕事に生きがいをもって、そこそこの収入にありつける人口は激減して行くことだろう。

 このジレンマから脱するには,競争に打ち勝って勝ち組になることではなく、1300兆円ともいわれる巨額の個人金融資産を、日本人が健康で文化的な生活ができるようにすることに使うことである。ところが、現実は、もっとお金を稼ぐにはどうしたらよいか、と言うことしか議論されていない。求めるものはお金ではなく,幸せのはずなのに。

 介護保険にしても、幸せを求める目的のものがお金で片をつけることになってしまった。

 介護というきわめて人間的な作業がお金で沙汰されることになってしまうと、老人は老後のためにどんなにお金があっても心配になり、文化生活を犠牲にして、寝たきりになったり痴呆になったりすることに備えることになってしまう。そして、個人金融資産はけっして消費には回らないことになる。 したがって、これからの日本におけるビジネスモデルはお金を稼ぐのではなく、いかに多くの国民が「一隅を照らす」職に恵まれ,生きがいを持って健康で分化的生活ができるかを模索すべきではなかろうか。

 そのとき、国民所得の合計の増大を目指すのではなく,平均ではない一人当たりの実所得の増加を目指すべきだ。そう、一億総中流こそが最高なのだ。それが結局消費を拡大し経済発展するというのが、日本のやり方だったのだ。

 一億総中流、すなわち平均的一般国民の所得を増加させることが経済発展につながるということは、すでに実証済みなのだ。これこそ共産主義だろうけれど、これまでの日本的やり方こそ共産主義であったのだ。

 資本主義と共産主義の競争はすでに勝負がついているといわれて久しいが,供給が需要を上回るような時代には、日本式の共産主義こそ求められているのではなかろうか。

 21世紀には、この日本の高度な文化を世界に発信して行くべきだろう。