日本語

 

 今,世界では英語が共通語になりつつある。政治、経済、社会、科学、どの分野でも英語がわからなくては、その分野に参画も進出もできない、ということでは仕方がない。

 ということは、英語が言語として優れているからではなく,進出するための道具として必要に迫られて使用している、というに過ぎない。いわゆるデファクトスタンダードというやつであろう。デファクトスタンダードもパソコンの文字配列のように、まあ、どうってことないものなら、どうってことないが、こと言語のように文化的、芸術的要素が濃いものは、使用言語で文化の発展が大いにちがってくると思われる。

 単にわかりやすくて、合理的だということでは、一時、エスペラント語というのがもてはやされた時期があった。しかし、そういう言語はいってみれば、モールス信号みたいなもので、単なる情報連絡手段に陥ってしまう。

 英語でもたとえば、Iとyouは自分と相手を表現する言葉に用いられるが,日本語だったら、自分と相手を表す言葉は,時と場合で異なり、多くの表現が求められ,それを誤ると,的確に立場を表現できないばかりか,時には争いの種にもなりかねない。だから、英語の方が簡潔で優れていると果たして言いきれるだろうか。電報の「チチキトク」みたいに使用する分には、間違いがなくてよいだろうが,より高度な複雑な自分と相手の立場を表現できる方が、言語的には優れているはずである。

 人間の言語の発展過程でも、多分最初は、自分と相手を表す言葉は一つしかなかったことだろう。それが、分化の発展とともに、必要に迫られて増えてきたのだろう。英語では、まだその域まで達しておらず、単に言い方で使い分けているに過ぎない。いってみれば、動物や鳥が鳴き声の発生の仕方で意思を伝える、あの領域にあるのだろう。これでは、文章にしたら、その違いを表現できないことはいうまでもない。

 文章にしても、漢字とかなを使い分けることにより、表音と表意両方がが可能であるし、

しかも、外来語には特別なカタカナにより、それを明示できる。こんな言語が世界中にほかにあるだろうか。中国から漢字が便利だとして受け入れたが,読み方はちゃっかり日本古来の言葉を「訓」として与え,表現の幅を広げるために漢字の組み合わせによる漢語を導入した。このように日本古来の言語を大切にしながらも、よいと思われるものはどんどん取り入れて日本語は発展してきた。今では,文章の中にも英語が頻繁に登場するようなことも可能なほど、フレキシビリテイに富んでいる。最近の歌も1/3くらいは英語になってしまっている感がある。日本が漢字を導入し始めた頃もこんな風だったのだろうか。

 しかし、その英語も日本語に合ったように加工して使われている傾向がある。すなわち、カタカナに置き換えるゆえか,五十音で表現されるから、英語の正しい発音は表現できない。たとえば、水を英語で「ウォーター」と表現するが、本当は「ワラ」に近い。文章で覚えた英語は「ウォーター」、耳で覚えた英語は「ワラ」という傾向がある。これは中間音の発音と、文字で入っていてもあまり発音しないtのようなものが存在するからだ。

なぜ、文字で入っているものを明確に発音しないのであろうか。いろいろいきさつはあるだろうが不合理である。存在する文字は意味でも発音でもはっきり役割を果たしてほしいものである。そして、はっきり発音することは、その文字の表す発音を余すことなく、正しく、聞き取りに誤りが生じないようにすべきである。すると、「ワラ」ではなく「ウォーター」となるはずである。すなわち日本語的発音のほうが合理的といえる。

 日本語でもよく指摘されるのは、同じ「はし」でも、いろんな意味で使われ、また発音もことなるから難しいといわれる。その改善策として漢字があるが、英語にも同じ文字で同じ発音で違う意味の語なんて無数にあることを考えれば,漢字で使い分けるだけ日本語のほうが合理的だ。

 その漢字も、見ただけで意味がわかるから、速読には日本語の方が適しているだろう。

 また、漢字にはその姿形が手書きにすると、芸術的表現も可能である。書道なんて中国と日本だけではないだろうか。こんなすばらしい漢字を中国は今,略字に変えてしまっている。漢字文化の宗主国がこんなこととは全く嘆かわしいことだ。長い歴史が培った漢字文化を、覚えるのにめんどうくさいという理由で現代人が変えてしまってよいものだろうか。昨年中国へ行ってきたが,街にあふれる簡略文字には幻滅感を覚え,逆に、公園の広場のコンクリートに、大きな毛筆で、墨ではなく水で書道を書いて見せるパフォーマンスを見たが,一幅の掛け軸を見るような感動を覚えた。やはりそこには芸術があったのだ。

 こんな形でしか芸術は残っていかざるを得ない現代の中国の合理性に、なんともやりきれない思いがした。

 日本においても旧漢字のやたら難しい字を簡素化したのに、あまり違和感を覚えないのはなぜだろう。字の特性を残しながらの簡素化であったからか、それとも慣れの問題だろうか。我田引水かもしれないが,中国の簡素化とは全く違うように思う。日本でも、手書きのときに、職、門、電、監、機などの簡略文字を書くことがあるが、これなんかは中国の簡素化文字に近く、あまり感じがよくない。自分のメモならよいが、正式の文には使わないほうがよいだろう。ただし、草書は簡素化文字とは全く異なる。文字を単なる表現手段から芸術まで高めたすばらしい文化だ。英語にも活字体と筆記体があるようなものだ。だから自分なりにくずした字は,もはや文字ではなく記号に成り下がってしまっている。

 俳句、短歌、詩でも日本語の表現の豊かさは、他の言語とは比べ物にならない。

 文字の数と音の数が一致しており,もっとも安定した音の数,5,7,5,や5,7,5,7,7の音の中に無限の意味を表現する。たとえば,

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川

 静かさや 岩にしみいる 蝉の声

 などは,とても17文字の文とは思えない表現である。

 このように,表音,表意が字の数と密接に結びついているのはなんといっても日本語だろう。

 その日本語だけでは表現できなかったものを,漢語という形で取り入れてきたのだろう。 

 経済,社会,銀行,経験とか無数に存在するが,これらはすべて,日本になかった言葉だったのだろう。

 それゆえか,、歌の歌詞では,歌詞のなかに漢語が少なく,和語がほとんどの場合であることに気がついた。

 小諸なる古城のほとり 雲白く遊子哀しむ

 緑なすハコベは萌えど 若草もしくによしなし

 しろがねのふすまの岡べ 日にとけて淡雪流る

 旅人の群れはいくつか 畑中の道を急ぎぬ

 暮れゆけば浅間も見えず うた哀し佐久の草笛    (ちょっとちがうかな?)

 最近の若者が歌う歌の歌詞に情感が感じられないのは、和語が少なく、外来語が多すぎるのも一因ではなかろうか。外来語ならまだしも、完全英語がますます増える傾向があるが、視聴者をケムに巻くことを目的にしているとしか思えない。外来語も英語も効果的に取り入れることは大いに結構で、それができるのも日本語の特徴である。

 ただし、その根底には豊かな和語が根づいていてほしいものである。