イトナミ

 イトナミと聞いて先ず頭に浮かぶのは、夫婦のいとなみではあるまいか。事実、夫婦のいとなみほどイトナミという言葉にふさわしい表現はないように思う。十年一日のごとく同じことのくりかえしでありながら、延々と続く行為だからである。多少のマンネリはあろうが、だからといってやめましょうという筋合いのものでもない。いわば、生きている証、夫婦である証みたいなものである。

 本能的といってしまえばそれまでだが、本能が豊かに、美しく満たされることこそ生きる目的ではないだろうか。

 これまでの人生を振り返ってみると、あまりに本能を抑制しすぎてきたような気がしてならない。ほしがりません、勝つまではに始まり、ただひたすらいやな勉強を強いられ、社会人になると、ただただ会社に尽くすことが、自分のため、家族のため、社会のためと説得され、それを信じてそれなりの平安を手に入れてきた。これを一般には「しあわせ」と呼ばれている。

 しかし、最近になって、ただ会社のために尽くしているだけではだめで、それが会社の儲けにつながらない限り、会社に身を置くことさえ許されない時代になってきた。その個人ばかりか、その部門全体が儲けを生み出さない限り、どんなに社会的に必要なことでも存続は許されない。従来は、ある部門が利益を生み出さなくても、会社全体でそこそこの利益を生み出せば、存続できたものだった。したがって、企業は広告塔代わりと称して、スポーツに力をいれたり、社会的使命として企業メセナなる言葉がもてはやされる時代もあった。

 ところが、企業業績の悪化に伴い、そのような無駄使いを先ず排し、それでは足りずに不採算部門を他部門で支えるのではなく、リストラクチャリングと称して整理し、さらに、働きのわるい社員をリストラと称してクビにしていった。その結果、残った優秀な社員は業績、しかも目先のそれを目指して過酷な労働を強いられる結果になった。

 商工ローンの「目ん玉売れ、腎臓売れ」社員などは、現代の企業の模範社員といってよい。とんでもない社員といわれるのは、単にマスコミに取り上げられ大騒ぎになったからであり、それに近い取立てをしていた社員は、マスコミに騒がれることもなく、優秀な企業マンとして存続して行くことだろう。現代の企業はこの方向にまっしぐらという状況である。しかも、それはスピードこそ命ということで、車のなかで猛スピードで走るモルモットさながらの様相を呈している。

 文化、文明が進歩して豊かな社会を目指す先進国がこんなことでよいのだろうか。

 それは人間のイトナミという概念が忘れ去られているためではないだろうか。

 20世紀を振りかえるテレビ番組で、インドのガンジー首相が人気ナンバーワンだった。

そのガンジー首相の人となりを、イギリス議会で独立の演説をするために船で行くのだが、その船上でずっと、糸紡ぎ器を回し続ける姿が放映されていた。さらに、議会でもあの裸にわずかの布をまとっただけの格好で演説したのだという。このガンジー首相の糸紡ぎの姿こそイトナミだと思った。事実、ガンジー首相自身も、このようにひまさえあれば糸紡ぎ器を回すのがインド人なのだと言ったという。このようにたとえ非効率で場違いであろうが、人間の存在を支え続ける行為がイトナミであろう。したがって、このような行為を否定することは、人間の存在そのものを否定することにつながりかねない。

 イギリスの植民地主義とインド人の貧しくても自分たちのために、必要なことをやって生きて行こうという価値観の対立が、独立運動につながって行ったのであろう。

 このガンジー首相が20世紀の人気投票NO.1だったということは、日本人の心は、ほんとうはこういう価値観を求めているのかもしれない、と言ったら言いすぎだろうか。

 少なくとも私個人の価値観はこれに近い。

 一時代前の日本企業には、ガンジー首相の糸紡ぎに相当する価値観が存在した。その価値観が日本を世界一の経済大国へと成長させた。そして世界一の金持ちになったらそれだけ豊かになり、したがって、より豊かにのびのびとイトナミに精を出せるようになるのでは、という予測とは裏腹に、すべては時代に合わなくなったから、過酷な競争社会に転換を図らなければいけないということになってしまった。その結果、イトナミに精を出すことさえ許されないことになってしまった。ちょうど、ガンジー首相から糸紡ぎ器を取り上げるというに等しい事態である。

 日本人のイトナミの主要な部分がなくなりつつあるが、これまでこの主要な部分を重要視するあまり、イトナミ本来の衣食住に関する、自分に必要なものは自分でつくるという部分も、効率的という観点から分業化・専門化を進めてきたために、なくなってしまっている。これでは残るものは夫婦のイトナミくらいしかなくなってしまう。

 わずかに、最近のホームセンターの隆盛にみられるDIYの流行の中に新しいイトナミの誕生の息吹が感じられる。

 カネはどんなにあっても消費が伸びないといわれて久しいが、DIYの世界はまだまだ芽を出した程度の段階で、この動向によってはこれまでとは全く異なった需要が産まれる可能性を秘めている。

 たとえば、私は現在、300坪ほどの畑を借り受け、野菜作り(自給目的)を楽しんでいるが、このようなことを希望する人が最近大変増えてきているそうである。

 野菜作りなんて、やってみればわかるが、買ったほうが絶対安いにきまっている。あんなに苦労しながら、いくら自分で作った野菜はおいしいといっても、そんなにちがうものでもない。こんな割りにあわないことをなぜやるのかといえば、ただ、楽しいからである。

自分で食べるものを自分で作るという喜びは、イトナミに通じるからだろうと思う。

 それに、野菜作りをやっていると、できた野菜で味噌や納豆、豆腐、漬物などを自分で作ってみたり、休憩小屋を手作りしたり、、井戸を掘ったりなど、本来、効率的という理由でプロに依頼してやってきたことを、お金を惜しむのではなく、純粋にたのしみでやるということが有りうることを知った。今、さらに、鍛冶で自分だけの刃物や器具を作ろうと計画中であり、自分の炉がほしいと思う今日この頃である。

 このような需要は今まで全くなかった需要ではなかろうか。しかも、このような欲求はひとそれぞれで千差万別であろうから、潜在需要は計り知れない。

 ところが、現在の日本の状況は、昔ながらの製品を、より高性能に、より効率的に、よりスピーディーに、より安くという昔ながらの価値観をより強化することが、競争に勝ち残る条件として躍起になっている。ただただ、お金を稼ぐという目的だけに追い立てられて。しかも、そのお金はますます一部の金持ちに集まってしまうばかりという事態に拍車がかかるだけである。イトナミに必要なお金はいくらも要らないというのに。

 正月用に餅をついたり、お彼岸におはぎを作ったりというイトナミもすべて捨ててしまい、スーパーから買ってきて食べているが、こういうものは食べればよいというものではなく、自分でつくり、また、自分で作れない人に分け与えるというところに意味があるのではなかろうか、という気さえする。

 人間以外の動物を観察してみると、イトナミ以外の何もしていないことがわかる。しかも十年一日のごとくどころか、地球上に誕生して以来変わらない行動を続けている。

 人間も動物の一種に過ぎないのだから、本来のイトナミを取り戻す努力をすべきではなかろうか。