創造論の世界

 アメリカを中心に現在、科学者や知識人の間に「創造論者」が増えているという。

 「創造論」というのは、これまで科学的に無理が多いと言われながらも、長らく信じられてきた進化論にかわり、世界と生命の起源を的確に説明する科学上の新しい理論である。

 これまでの理論では、地球の45億年という途方もなく長い年月の間に、ごく初期に偶然誕生した単細胞の生命体が進化して、現在の人間をはじめとする多くの動植物が地球上に存在するようになったという説である。

 しかし、果たして長い年月をかけると、原始の無機質しか存在しないこの地球上でほんとうに生命体が誕生するのだろうか。無論、雨や風、温度、圧力、電磁界、放射線等ありとあらゆるものの組み合わせがあり、その確率と偶然性だけで本当に生命は発生し得るのだろうか。過去に、フラスコのなかでアミノ酸を合成したというニュースに、人口生命も近い将来誕生するかもしれないという風潮が、世界中に広がったことがあった。それもその後の研究で生命体のアミノ酸とは根本的にことなることが解明されている。

 また、アメーバーのような単純な単細胞の生命体が初期に誕生したといわれているが、

アメーバーは単細胞でありながら、生殖、循環、栄養の取りこみ・消化、排泄と何でもこなしている。高等動物が膨大な細胞の集まりで行うことが、たった一つの細胞ですべてまかなってしまう。その点では、もっとも高度な生命体といってもよい。

 このような高度な細胞がこの地球上に突然誕生する確率は、生物体に書きこまれているDNAから推定すると、砂漠にある日突然エッフエル塔が誕生するようなものだという。

 人間が建設するならともかく、単なる自然界の偶然の重なりだけではおこりえないことはだれもが納得できることではなかろうか。ところが進化論だけは45億年という途方もなく長い年月ゆえにか、これまではだれでもがこれを受け入れてきた。

 中学の理化の教科書で、馬の頭蓋骨の化石を小さい順に並べて、馬の進化の経過を表すものとして教えられたし、人間も猿人、原人、旧人、新人と猿の格好から少しずつ人間に近づいてきた様子を、進化の証拠として教えられてきた。しかしこれらは、いずれも世界の全く異なる地域から出土したものを関連付けて並べたに過ぎない。このやりかたでは、現在でも、たとえば犬の小さい種類から秋田犬のような大きなものまでを、並べさえすれば進化の証拠ということになる。

 20世紀の初頭に発見されたネアンデルタール人は、曲がったひざで前かがみで歩いていたとして、猿の要素がまだ抜けきらないヒトだとされたが、それもただ一体の骨から結論付けられており、それ以外のネアンデールタール人はちゃんと直立歩行の化石だったという。しかもその後の調査でその化石は、ヒザに骨軟化症とか関節炎を患っていたことがわかっている。

 このように、今から考えれば、こじつけとしか思えないことが、なぜ通用してきたのだろうか。その理由は私の考えるところでは、DNAが発見される前だったため、単に掛け合わせたり、突然変異だけで種はどんどん変化して行くものと信じられていたせいだと思う。たとえば、アメーバーのような単細胞の生命体は小さな蛋白質がたまたま命をやどしていたくらいにしか生命というものが認識されていなかったためであろう。ところが、細胞内のDNAを考えてみると、砂漠の真中にエッフェル塔を作るほどの高度な知性の蓄積がなければでき得ることではなかったのである。生物の細胞のDNA内部には、1兆ビットもの情報がつまっているといわれている。これは百科事典約1億ページ分の情報量に相当する。しかもすべての情報は1種類のプログラム言語によって書かれている。このような秩序ある有用な情報は、偶然を原動力とする進化で生まれるはずがない。しかも、エントロピー増大の法則からいっても、自然現象の偶然の過程から高度の秩序が生じたとする進化論は全く非科学的である。

 したがって、どんな原始的な生命体といえども偶然に生じたのではなく、その親から生まれたとしか言いようがない。よく、ニワトリが先か卵が先かという議論が例にあがるが、卵は親がなければ生まれるはずがないのである。あんなに単純な格好をしている卵でさえ、膨大なDNA情報を親から受け継いでいるのである。このDNAを無視すれば、卵は蛋白質の固まりだから、人工合成できなくもないと考えたのもむべなるかなである。

 それではそのニワトリはどのようにしてこの世に誕生したのかをずっとたどって行くと、そのニワトリは神が作り賜うたとしかいいようがない、というのが「創造論」の世界である。

 それでは、神が創り賜うたとすると矛盾はあるのだろうか。それがないのである。なぜならば、聖書で神が生きとし生けるものを作り賜うたとしっかり書いてあるからである。そんなことはできっこないという気持ちから進化論を考え出したのだろうが、上記のような理由から、進化論のほうがずっと矛盾が多い。なぜならば、聖書では全能の神が創ったというのだから矛盾はないが、自然界の偶然の積み重ねから生命が誕生したというのは、科学的に明らかな矛盾があるといっているのだ。

 聖書では、最初にアダムが誕生し、そのアバラ骨からイブを作ったというのは、DNAからみても、科学的に正しい。これが逆だったら、いくら全能の神であっても信用に値しない。なぜならば、ヒトの男の性染色体はXYであるが、女はXXである。したがって、男から女は作れるが、女から男は作れないからである。しかも初期のヒトのDNAは完璧であったから、近親結婚は劣勢遺伝の影響を受けず、大いに産めよ増やせよ、地に満てよ、が実行できたはずである。その後、少しづつ遺伝因子にキズがつき、劣勢遺伝が人類に深刻な影響が出始めたころになってはじめて、近親結婚は禁止されたのだろう。

 このように、遺伝因子のキズは、それがたとえヒトにとって有益な突然変異であったとしても、必ず「遺伝荷重」となり、何代も代を重ねるうちに致命的になる運命をたどる、とは、アメリカの偉大な科学者ゲーリー・E・パーカー博士の主張である。

 また、進化論では、進化の過程を示すおびただしい数の化石がその証拠としている。それらの化石は三葉虫やシダ、始祖鳥、魚類から恐竜まで、その形を完全にとどめているもがたくさんある。これは何を物語っているのだろうか。生物がもし死んでそれが土に埋もれるには気が遠くなるほど年月がかかるだろうし、それまでにほとんどの生物は朽ち果ててしまって、形をとどめることはほとんどないはずである。したがって、形をとどめているということは、生きているうちに埋もれてしまったことを意味する。生きているうちに瞬時に埋もれてしまうような天変地異とは何だろうか。よく言われているのは、隕石の衝突である。隕石の衝突によって飛び散った岩石のチリは太陽光線をさえぎり、地球を厚く覆っていた水蒸気を冷やしたため、地球に40日にわたる大雨を降らせ、世界中に大洪水を起こした。この洪水によって、下層部には下等な小生物が埋まり、大きな陸上生物は高いところへ逃げて行っただろうから、比較的上層部には恐竜などの大動物が埋もれたのだろう。これを、進化論では各地層を億年単位の年代層に位置付けている。しかし、地層はどんなに時代が経過しようが、大洪水がなければ地層自体が生まれるはずはないのだ。それに地層の年代測定法は、炭素14法とかカリウムーアルゴン法が用いられているが、ホモサピエンスの最も古い化石について炭素14法ではわずか8500年を示したにすぎない。しかし、進化論者にとってこの数値は理屈に合わないとして、少なくとも20万年以上のはずであるとしている。そこでカリウムーアルゴン法が採用されるようになった。この方法によると年代が古く出易い測定方法だったからである。この方法は周辺の火山岩石を放射性カリウムの半減期を利用して測定する方法で、ハワイで200年前に噴火した歴史が明確な岩石をこの方法によって測定したところ、1億6千万年〜30億年という結果が出たという。この方法で化石の出た地層を測定すると、、もっともらしい結果が得られたのであろう。この方法によると、恐竜は6千万年前に絶滅したことになっている。

 この6千万年前も割り引いて考えると6千年以下かも知れない。すなわち、ノアの洪水の時代である。ノアの洪水によって多くの生物が土砂に埋もれ、化石になり、石炭になり、石油になったと考えられないこともない。すると、恐竜と人間が同時に存在した時代もあったはずである。現に、アメリカテキサス州のバラクシー川流域には、干しあがった石灰質の川原に、「恐竜と人類の足跡の交差した」化石が、いくつも発見されている。

 ノアの洪水によって陸上の植物が全滅したとすると、現存する最も高齢の植物は4500歳くらいのはずであるが、屋久島の縄文杉はまさかその名のとおり8千歳というわけでもあるまい。文献では、世界一の長寿樹木はアメリカ、カリフォルニア州の山麓に今でも生きているアリスター松だといわれており、ドリルで穴をあけて調査したところ、約4500歳だったという。奇しくもノアの洪水の時期と一致する。

 ノアの洪水も聖書に記載されているが、その聖書(特に旧約聖書)も果たして誰が書いたのだろうか。DNAを設計できるような全能の者しか書くことはできなかったのではなかろうか。

 イギリスのケルビン卿は次のように言っている。

 「科学を徹底的に研究すればするほど、科学は無神論というものを取り除いてしまう、とわたしは信じている」と。