なぜ人を殺してはいけないか

 

 「文芸春秋」11月号で、なぜ人を殺してはいけないのか、という特集をしていたので読んでみた。わたしは、かねてから、動物の中で、殺し合いをするのは人間だけだという話を聞き、なぜ人間だけが殺し合うのか不思議でならなかった。

 西洋では、絶対神が「汝、殺すなかれ」と説いており、東洋では「己の欲せざるところを人に施すなかれ」と教えられているからだというだけでは納得できない。そこには、何故という理由が記されていないからだ。自分が殺されたくなければ人を殺してはいけないといわれても、ほとんどの殺人者は自分が殺されたくないのは百も承知しながら、人を殺しているし、なかには、殺されたくないからこそ、相手を殺す人がいる。

 また、絶対神が「汝、殺すなかれ」と説いているキリスト教徒が大挙して異教徒を殺しにエジプトくんだりまで繰り出すとは、上記の理由が何の説明にもなっていないことを証明している。

 中には、そんな質問が出るところにこそ問題があるので、何故そんな疑問が生じたのかの原因を逆に問いただすことが重要、と、説いている人もいた。これはあきらかに少年犯罪者に対する教育を意識しての意見だろうけれど、こんな人こそ、少年を正しく導くことはできないだろうと思った。だいたいが、質問者をバカにしている。素直にいけないからいけないのだ、という人がそばにいてくれたら、その少年は殺人なぞ起こさずに済んだかもしれない。

 哲学者、山折哲雄は、なぜ人を殺しては行けないかと問われたら、それでは君は、ライオンに食われる覚悟はあるのか、それがないのだったら、動物を殺さなければ生きて行けない人間は、動物たちの前に頭を垂れて、せめて人間だけでも殺さないで生きて行けと諭すという。これも、わかったようでわかりにくい。結局殺してはいけない理由付けはむずかしいのだろう。

 それゆえか、野坂昭如と立川談志は殺していけないことなんてない。どんどん殺せ、その代わり自分も殺されることを覚悟しろ、という論調だった。これなんかは一番わかりやすい。ところが、実態は、殺人者は最大限保護され、被害者は殺され損の世の中である。オウムの麻原を見るがいい。今後末永く三食昼寝付き、適度の運動と十分な休養、酒、タバコ禁止、粗食で成人病とも無縁で世間の誰より安泰な生活が保証されている。一般の人の方が、家では火災、地震、外へ出れば、交通事故、通り魔その他危険は数限りない。ただ自由であるかどうかのちがいがあるにしても、自由がすべての自由を保証しているわけではない。程度の差があるにすぎない。

 神戸の少年Aや、バスジャック犯人なんかは、少年院かなんかで、先輩や管理人にいじめられることもなく、人権を尊重され、更正を願って温かく見守られながら生きて行くことになるだろう。 このような実態のなかで、人を殺すなといっても、何の説得力もない。むしろ、単に人を殺すという経験をしてみたかった程度でも、人を殺す理由になりさえする危険がある。

 人を殺したら殺されることを覚悟せよ、といえるのは、無法の未開部落で、人を殺すとその親兄弟がやってきてたちまちに復讐の嬲り殺しの目に合う、という当たり前の社会においてはじめて通用する言葉だろう。その点ではハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というのが人間社会を規制する原点ではないだろうか。

 復讐を禁止しそれに代えて法律で罰せられる法治社会が文化社会であり、罪を憎んで人を憎まず、罪を犯したものに対しては、ひたすら擁護し、更正を促すことが文化国家だということになっている。この法律の精神では、殺人者の人権だけが保護され、被害者の復讐したいという当たり前の人権が無視されている。復讐を禁止したら、それに見合った罰を法の元に実行されなければならないと思う。

 西部劇に出てくる町の無法者をみんなで縛り首に処したあの正義がどこへ行ってしまったのだろうか。それでもアメリカには、まだ陪審制度にその名残が見える。裁判官が事実を法に照らして罰するのではなく、町の衆(陪審員)が決めるのだというやり方を、アメリカのような先進国がかたくなに守っている。アメリカの法廷に、もしオウムの麻原がかけられたら、長くても1年以内には死刑になっていることだろう。

 日本では、殺されそうだからと警察に助けを求めても、取り合ってもらえないのは、上尾のストーカー殺人、栃木の石橋署のいじめの果ての嬲り殺し事件など枚挙にいとまがない。警察は守ってくれない、法は殺人犯の擁護ばかりに腐心しているという現状においては、殺人保護推奨法が存在するといっても過言ではない。

 その改善のためには、いたずらに罰を重くするというのではなく、被害者の感情を受け入れることこそが先決であるが、現状では被害者をまず締め出すことを目的にしていることが根本的にまちがっている。

 江戸時代において、仇討ちこそ最高の美徳されていた日本の価値観はどこへいってしまったのだろう。マレーシアの鞭打ちの刑は野蛮と非難されたが、日本の法治国家よりずっと人間的で、再発防止の効果も高いのではなかろうか。

 このような日本の現状のもとでは、もし仮にわたしの子供が栃木の石橋署に取り合ってもらえなかったような事情で殺されたとしたら、わたしはどんな手段でもとって、復讐したことだろう。犯人が保護されていてそれがかなわない場合は、刑期を終えるのを待ってその直後に実行したことであろう。その場合、殺人罪には問われるだろうが、懲役になっても、麻原と同様のきわめて安泰な日々が保証されているだけであるから、後悔は一切ないことだろう。このように当たり前の価値観が全くといってもなくなってしまっている。

 被害者の親の談話としてテレビ等に出ることはあるが、ただ犯人が許せないというばかりで、自分で具体的な行動をとろうとする人はいない。

 そこへ行くと、アングロサクソンは違うと思ったのは、ルーシーさん行方不明を、警察ではなく彼女の両親が懸賞金をかけてでも情報を集め、容疑者を突き止めたことだ。

 しかし、日本の警察は逮捕しておきながら、調べは遅々として進展していない。のらりくらりとただ長引くだけだろう。挙句の果てはロス疑惑のような結末になりかねない。ルーシーさんの親の気持ちになると、なんともやりきれない。

 なぜ、このような意見をいう人がいないのだろうか。

 愛知の中学生の5千万円恐喝事件のときも、警察に相談しても取り合ってもらえなかったそうだが、犯人たちからの暴行による傷のため、入院していたときの同室の男性(昔その筋だったという)といっしょに、犯人宅へ出向き、脅し取ったお金を返してくれと、若干の脅し文句(家は新築ですね、火事になったら困りますよね、また嫁入り前の娘さんがいますよね)に怖くなった加害者の親が、警察に出向きぜひ事件にしてくれるように頼んだのが、きっかけだという。被害者が訴えても取り合ってもらえないのが、加害者が出向きやっと捜索してもらえたのだ。この一件をみても警察よりその筋の方が解決力があるといわねばならない。その筋といって悪ければ、人間社会の加害、被害に伴う当たり前な恨みや恐怖が正常に機能しているということだ。

 この特集のなかで、野坂が最後に皮肉を込めて、「殺してごらん、殺したい相手、他人を認識できる世の中はすばらしい」と書いていたのが、印象的だった。

 家庭内暴力に耐え切れなくなった親が子供を殺す事件がしばしばあるが、これなどは将に殺すしかないようだ。寝ている子供に包丁を突き刺したら、「お父さん、ぼくが悪かった、だから殺さないで」と哀願したそうだ。それに対し、父は「もう手遅れなんだ、だから早く死んでくれ」といってメッタ刺しにしたそうだ。この父は、なぜその行動力をもっと初期の段階で行使しなかったのか。また、一刺ししたときに相手は謝っているのだからなぜ、そこでやめなかったのか。最近の少年の暴走はその父親の当たり前の行動力にかかっている思えてならない。ことほどさように、当たり前な人間感情が、当たり前に機能すれば、殺人するところまで事態は進展しないのではないだろうか。

 ただし戦争は別である。戦争は人間感情を超えたところに起きる。その証拠に、戦争当事者は必ず正義、聖戦を振りかざす。無理もない。ついこの間まで、よその国を攻めて自国の領土とする戦いを人類は続けてきた。それは相手国が憎いのではなく、自分のものにしたいほど魅力的だということで、個人の殺人とは全く意味が異なる。いってみれば、そんなささいな理由によっても人類は殺人を犯すという証でもある。

 以上のことから人を殺してはいけないという命題は成立しないような気がする。