電気事業の未来へ 遺言

今年よわい 傘寿を迎え、余命も幾ばくかと考えるとき、これまでの人生は何だったのかと振り返ってみたくなる。

一言で言うと、電気事業、その中でも水力発電事業にほとんど携わってきた。水力発電というと、明治時代からの発電方式であり、先人の努力には敬服の念しかないが、私の年代では、その一般的水力発電ではなく、揚水発電というものである。それは、原子力や大容量火力発電では、電力使用が下がる夜間に余剰が生まれるので、その余剰電力を利用して、ポンプで下ダムから汲み上げておき、それを、電力使用が高まる昼間に発電に利用するという技術で、私が入社した昭和41年には、矢木沢発電所が運転開始したばかりで、24万キロワットとまだ小規模であった。以降、安曇、水殿、高瀬川、玉原、今市、塩原、葛野川、神流川と100万キロワット級の揚水発電所が建設され、その内の高瀬川と今市では建設現場にも勤務した。

何故こんなにもたくさんの揚水発電を必要としたのか、それは、原子力の増加が理由である。原子力は、一度運転に入ると出力を調整が困難であるため、余剰を吸収するためにどうしても揚水を必要としたのであった。福島と新潟で電力量の40%を超える様になると、それに対応するだけの揚水発電が必要になったのだ。

そして、それを支える送電網は、福島と新潟と関東を結ぶ100万V系統が建設された。

このことによって、電気事業は、原子力と揚水発電だけでもまかなえる時代を間近にむかえていた事になる。そのとき、一つの問題が生じた。それは、深夜、原子力と揚水発電だけになると、原子力は出力調整ができなくて、揚水ポンプ運転では、入力調整ができない、すなわち周波数維持ができないことになってしまう。そこで、揚水ポンプ運転時に何とか入力調整ができる方法はないかを検討したところ、回転数を可変にすれば可能であるが、残念ながら、周波数を50ヘルツに保つために同期発電機を利用しているためにできない。そこで同期発電機を用いていても、可変速可能な可変速揚水発電技術を発電機メーカーの東芝との共同研究で開発した。

そして、塩原発電所へ一台、葛野川発電所へ一台、さらに建設中の神流川発電所への導入を予定していた。私はここで定年退職を迎えたのであった。

その三年後、あの東日本災害によって、福島原発のメルトダウン事故ですべてが水泡に帰した。

原子力安全神話に頼りすぎていたという反省から、原子力から自然エネルギーへの転換が社会要請となっていった。

原子力にはこりごりという国民感情は理解できるが、専門家は感情に流されるべきではない。現に福島第一原発の1〜4号機はだめだったが、5〜6号機はセーフだったのだ。ほとんど話題にも上らないが、5〜6号機では津波対策がなされていたのである。そして、その1〜4号機についても、その年の土木学会の長期津波予想の検討結果を踏まえて、対策を検討することとなっていたのだ。ところがそれを待たずにその3月大地震が発生してしまった。1000年に一度という確率をまさか数ヶ月後に発生するとは、だれも予想できないかも知れないが、そもそも5〜6号機は対策済みであったことは、見落とすことができない。

放射性廃棄物の処理がトイレのないマンションに例える人がいるが、科学的にかんがえるべきで、単に迷惑なモノに関わりたくないというのは、いま話題になっている処理水の海洋廃棄を参考にすべきであろう。そもそも放射線というものは、ウラン鉱からして自然界に存在するモノであり、十分な対策をして自然に帰しても何も問題はないはずである。プラスチックのほうがずっと悪質である。

もう一度言う。もし、1〜4号機も5〜6号機と同じ対策が完了していたら、現有の原子力、100万V送電網、揚水発電設備で、化石燃料に頼らない夢の電気事業が実現していたはずである。