クラシックギターへの誘い

      

 ギターというとエレキギターかフォークギターを連想する人がほとんどだと思う。事実楽器店へ行ってもほとんどエレキギターばかりであと少しのフォークギターでクラシックギターは置いていないか、あったとしても1〜2本しかない。それは需要がそうだということだ。若者が小遣いをためてギターを買おうというのに、クラシックギターなんて買うはずがない。なぜならば、テレビで出てくるギターはすべてエレキギターだからである。たまに弾き語りでフーォークギターが出てくるが、彼らにしてみれば、「ネクラ」に見えるのだろう。

 ところが、ギターの音色が好きだといわれるギターは実はクラシックギターなのだ。ところがこのクラシックギターも人気があったのは一時期であった。そう、あの世界的名曲「禁じられた遊び」が世に出てから、南 こうせつや吉田たくろうなどが活躍するフォーク全盛までの10年ほどの間であった。

 「禁じられた遊び」のもの哀しいメロディーをギターがかなでる美しい音色に、日本ばかりか世界中が感動したものであった。それがクラシックギターであったのだ。それまで日本中に普及していたのは古賀ギターといわれる、演歌専門のスチールの弦を張って、文字通り指でつま弾くギターであった。ところが、クラシックギターはナイロン弦を用いていて音も柔らかく、奥深い味わいがあるものであったために、あっと言う間に爆発的に日本中に広まった。当時、楽器店に行くと、何十本ものクラシックギターが天井からつり下げて売られていたものである。そして、若者の多くはその楽器のとりこになっていった。

 このギターの特徴は、なんといってもきれいな音色にある。それも自分の指で作り出す生の音だ。エレキにしてもフォークにしてもピックではじいて音を出すため、間接的な音で、生、すなわち生きた音という実感はない。生きた音というのは、爪の形、手入れ状態、温度、果ては体調・気分でも音が変わるほど微妙なものである。きれいな音ということは、どんな曲、たとえば童謡のような簡単な曲でも、大変魅惑的に聞こえるから、弾いていて飽きないどころか、ますます病みつきになる。そして、それを二重奏、三重奏でやると、独奏とちがって、深い歓びに浸ることができる。社交ダンスをひとりでやるのとふたりでやるくらいの違いがある。

 ところが、この楽器にはひとつだけ大きな欠点がある。それは、他人にきかせるには向かない楽器だという事だ。音量が小さい からだ。しかし、聞き手が耳を澄まして聴いてくれれば、2000人のホールでマイクを用いずに、リサイタルだって可能である。その時は、聴衆は水をうったように静かでなければならない。クラシクギターのファンは、それを知っているから、すこしも困らないが、一般のコンサート会場ではほとんど聞き取ることはできない。

 やはりこの楽器は他人に聴かせるためではなくて、自分で楽しむか、せめて、恋人に聴かせるためのものなのかもしれない。しかし、聴かされた恋人の方は少しは嬉しいかもしれないが、弾いてる本人ほどではないようである。やはり、弾いてる本人が一番楽しめる楽器のようである。その他の楽器でこんな特性を持っているのはそうは見あたらない。楽器とはすべからく他人に聴かせるためのもののようである。

 わたしは、こんな楽器こそ高齢者にふさわしいと思っている。他人に聴かせるのではなく自分で楽しめる楽器、しかも、やさしい曲なら誰でもどこでも簡単に弾くことができる。たとえば、あの「しろじにあかく・・・」の曲を他の楽器で弾いて楽しいと思えるものはないのではあるまいか。しかし、ギターならば、音がきれいだから、ポンと弾いた一つの音でさえうれしい。それは弾いた本人しか味わえない味なのだ。なぜならば、楽器の音とはいいながら、実は自分の指で作り出した美しい音だからである。フルートなんかもそんな面を持っているが、やってみるとわかるが吹奏楽器というものは音を出す難しさもさることながら、息が苦しくてそのうちに頭痛がしてくるので、高齢者には向かないような気がする。 たいした技能も体力も必要とせずよい音と音楽を楽しめることは、脳内モルヒネの分泌を促し、活性酸素を抑制し、免疫力を高めると聴く。そして、右手と左手の指の一本一本を動かして演奏することにより、ボケ防止に最適だと聴く。

 音が小さいという欠点は、近所迷惑を考えれば、長所でさえある。わたしは、家でよくギターを弾いているが、近所でわたしがギターを弾くことを知っている人はいない。どんなに弾いても近所に聞こえることはないのである。

 そんなマイナーな楽器にもかかわらず、ギターの歴史は深く、ベートーベンはギターを評して、「ギターは小さなオーケストラである」という言葉を残している。また、ベートーベンの親友であったフェルディナンド・ソルは優れた演奏家であるとともに、数々のギターの名曲を作曲し、それは現在でもギター演奏会では演奏されないことはないほどである。

 ベートーベンは、ピアノを評して「ピアノは楽器の王様である」とも評しているが、ギターとピアノがどちらが完成度の高い楽器かといえば、見方によってはギターだといえないこともない。

 こんなに完成されたギターであるが、困ったことが一つある。それは、知っている曲ならばギターを弾けるようになれば、演奏できるかというとそうでもないことである。誰かがギター曲に編曲してくれないことには、ピアノを人差し指一本で弾くような演奏しかできないことである。ピアノだったら、左手で伴奏を右手でメロディーを弾けばどんな曲でも弾けないことはないが、ギターはそうはいかない。この問題があったために、ギターの全盛時代には、楽器店に好楽社の「ギター曲ピース」というの売られていて、曲数がどんどん追加されて最盛期には千曲は超えた。ところが現在はそれはもうすでにない。この不自由さのために、歌の伴奏としてのギターが流行した。それがフォークギターである。歌の伴奏ならば、編曲されていなくても、コードさえ覚えれば、あとは打ちならすだけでよい。すこしカッコつけても、せいぜいアルペジオ程度だから簡単だ。これが弾き語りと呼ばれ、ニューミュージックとして一世を風靡するとともに、クラシクギターは次第に世の中から消えていった。

 流行り・すたれはこの世のならいとはいうものの、ピアノに匹敵あるいはそれ以上の楽器文化が消え去って行くということは寂しいという次元のものではなく、世の中の矛盾のような気がする。

 それはテレビを中心とする芸能文化の商業性からやむを得ないことならば、商売に関係ない高齢者の楽しみとして大きな可能性を秘めているように思う。

 高度なギター曲を高齢者が演奏することにはムリがあるけれど、メロディーと伴奏を分担して演奏する合奏方式をとれば、かなり高度な演奏も可能であると同時に、他人と心を合わせて演奏する快感も同時に得られる。三部合奏ではさらに、2ndパートの装飾も加わるため、音量は別としてオーケストラの迫力を演出することも可能である。

 こんなすばらしいことが、だれにも簡単にできるということが意外と知られていない。わたしは楽譜が読めないから、という理由が一番多いが、そんなものは、早い人で3日、遅くても1ヶ月もあれば、楽譜を見ながらギターを見ずに演奏できるようになる。そんなことより、わたしが過去に教えて続かなかった人のほとんどは、楽譜ではなくて、弦の弾き方であった。自己流で覚えていて、そうでない弾き方はできないといいいはってやめてしまうのだ。初めからやれば、抵抗はあるものの1〜2日でマスターできるものを残念なことである。それはアポヤンド奏法といって、クラシックギターのあの甘く切ない音を出すためにはどうしても必要な奏法なのである。自己流奏法もまちがっているのではなく、アルアイレ奏法といって、和音をばらして弾くアルペジオになくてはならない奏法なのだが、それでメロディーを弾いたのでは、弱々しくてとてもじゃないが、音楽にはならない。

 早い話が、1ヶ月もあれば、うまい下手は別として、楽譜に向かって演奏はできるようになるということだ。また、その程度できれば、何人かずつの合奏により、お互いにカバーできるため、驚くほど高度な演奏が可能になる。

 私は、学生時代に学園祭で、ずぶの素人ばかりを集めてギターコンサートをやったことがある。そんなことを可能にするのがギターなのである。

 二番目に多いのが、指があんなに動かないという理由であるが、かくいう私も20年ほど前に一度、指が急に動かなくなり、どんなに練習しても悪くなる一方であったために、ギターを断念した時期があった。そんなある日、あるパーティーで、アントニオ古賀氏と話す機会があった。私の大学のギターサークルが指導を仰いでいた阿部保夫先生に、アントニオ古賀氏も弟子入りしていた時期があったということで話が弾んだが、そのなかで、「それでどう、今でもギター弾いているの」と問われ、もう、指が動かないので弾いていない、と答えると、「あんた、プロになるの」と問われ、「とんでもない」、と答えると、「プロになるのでなかったら、指が動く動かないなんて関係ない、続けなさいよ」と言われてしまった。それはもう8年ほど前のことであるが、私は氏のその一言でギターを再開して現在に至る。私は今、やめないでよかったと、本当に氏に感謝している。たしかに、プロになるのでなく、自分が楽しんで弾くのには、指は動くに越したことはないが、動く範囲内で楽しめば良いのであって、何もやめてしまうことはないからである。それがわかってから気持ちが大変楽になって、ギターをうまくなるためにではなく、楽しんで弾けるようになったような気がする。

 昨今の子供のピアノも高校卒業ころになるとほとんどの人がやめてしまう。ものにならなかったということであろうが、ほんとうにもったいないことである。本来、音楽というものは自分の心を豊かにしてくれるためにやるものであって、ものにするためではないはずだ。そのことをアンロニオ古賀氏は教えてくれたのだと思う。こんな大切なことが、ほんの一言二言で表現できる氏の指導力には恐れ入った。やはり一流の師というものは、こういうところが違うのか、と感じ入った次第である。

 氏のいうとおり、「指が動く動かないなんて関係ない」のである。

  平成12年5月  池田 孝蔵