人工透析中止の判断

 

公立の福生病院で、人工透析患者の透析中止により、その患者は一週間後に死亡していたことが、マスコミに取り上げられ、大きな反響を呼んだ。

病院では、患者の意思を十分尊重したとして、確認文書に署名までしているとしている。

しかし、その後患者の意思が変わり、再度透析を申し出たが、受け入れられなかったことが判明したことも、大きな問題となった。

その医院では、これまでも、人工透析中止により、患者が死亡していることも明らかになった。これまでは、意思が変わって透析再開を申し出るといような事例がなかったから、問題にもならなかったようだ。早い話が、人工透析を受けるために病院を訪れることがなければ、透析中止したことになるが、病院としては、自己防衛のためにも、透析中止の確認文書を求めていたことだろう。

ことを重視した都は、実態調査を行い、中止に当たって倫理委員会は開かれていかったことなども問題としたようである。

テレビのコメンテーターなども、医療に携わる者が、透析中止による死の選択肢もあるなどの判断を患者に示すなど、もっての他という論調であった。

これらの論争は全く無意味である。

患者は、透析の中止は、医師に勧められたからでもなく、ましてや、倫理委員会の判断を待つべき問題でもない。患者本人がずっと悩んできた問題なのだ。ただ、透析中止の書類に署名捺印したあとであったが、どうしても、人間の生きようとする本質的欲求に耐えきれず、透析再会を申し出てしまった。人間の葛藤として、十分あり得るはなしである。

それに対し、透析中止の文書を盾にとって中止するのではなく、当然再開するのが、医療者の取るべき行動であろうが、そんなことに振り回されることを、よしとしないなら、他の病院を紹介すれば済む問題である。

透析中止の判断に当たってのガイドラインも示されていたが、透析継続が延命に重大な影響があるとか、緊急性がある場合に限られるとかで、当たり前である。

それ以上の透析中止判断のガイドラインなどを、倫理委員会かなんかは知らないが、患者以外の判断を導入すべきではない。

似た問題で、後期高齢者への抗がん治療、胃ろう、人工呼吸吸などの選択も、患者の選択に従うべきで、何とか委員会が決定すべき問題ではない。

ただし、高齢化社会において、死と医療をどのように捉えるかは、医療側というよりは、患者側にこそ、熟慮しなければならない問題が多い。それを、医療側が忖度して、入り込んでしまうから、問題はこじれる。医療側は、単に延命と苦痛除去に努力すればよいだけなのだ。しかし、それらの採用に際しての、様々な問題を患者に寄り添った相談に応じることは、必要であることは言うまでもない。いざというときに、人間はパニックに陥り、沈着冷静な判断ができなくなるおそれがあるため、健康であるうちに、いざというときにそれらを選択するかどうかの、意思を明確にしておくという方策も検討されてはいるが、話題に過ぎず、制度として定着が望まれる。究極の死の問題についても、あまりになおざりだ。

たとえば、橋田壽賀子氏の尊厳死の願い、西部 暹氏の自裁死など、人間として、事前にどうしても考えておかなければならない問題であろう。

最近、考えさせられる文を目にした。

聖人は、死に安らぎ

賢人は、死を分け

常人は、死を畏れる。

うーん、せめて賢人になりたいものだ。