ストーカーと少年犯罪

 先日のテレビ番組の「ここがヘンだよ日本人」という番組で、自らストーカーと名のる31歳の会社員が出演して、それに対して、各国の外人が意見をいうとともに、日本のテリー伊藤や人気女性弁護士などが、なぜそんなばかなことをするのかと攻撃する内容であった。そのなかで、最後までかみ合わなかった議論は、「相手が迷惑がっているのに、あなたそれがわからないの」という質問に対して、「それをわかっていて、それが楽しくてやっている。相手からいやがられる方が悦びは大きい」とのこと。一般的な判断からすれば、相手に嫌われてしまったら、元も子もなくなるのだから、ストーカーというのは、相手がいやがっているのがわからないのだろうと決めつけてしまって、それより一歩も議論が進まない。そして、口々に許されないことだ、バカなことだ、サイテーだ、軽蔑するとののしり、たかだか、訳知り顔の女性弁護士は、「相手に嫌われてしまったらおしまいでしょう、それでも迷惑行為を続けることは犯罪よ」と脅す。それでも「大丈夫。先生にはやるつもりはありませんから」とひるまない。

 わたしは、このやりとりを見ていて、どんなに卑劣な行為で、許されないことかを説明しても、そんなことは十分承知していてやっている場合には、何の説得も効果はないことを知った。泥棒に「盗みは悪いことです、法律でも禁じられていて、それは犯罪です」とどんなに説いても無駄なことと似ている。犯罪を犯すものは、悪いことだと知らないで犯す訳ではないことは、どの犯罪をとらえてもいえることことだ。

 人殺しも悪いことだと知らない人はいないはずなのに、国内外を問わず、殺人は絶えることがない。戦争においては、国と国が正義をかけて殺し合う。だから、子供たちから、「人殺しは悪いことなのに、どうして大人は戦争をするの」と訊かれてしまう。余談になるが、ダライラマと日本の哲学者、山折哲夫との会談で、山折は、殺人を犯した少年が「なぜ、人を殺してはいけないの」という質問をしたことにふれ、、人類は、その言葉に答えを持っているだろうか、という質問を皮切りに対談していたが、確かに人類は国レベルの殺人を歴史上続けてきて、いままだそれは終わっていない以上、明確な答えは持っていないとみるべきだろう。殺された相手の身になって考えよといっても、殺したいと思っている相手の生命を尊重しなさいということには、それが考えられるくらいなら殺意などもつはずがなく、本質的な矛盾がある。それこそ、宗教の教典に「汝、殺すなかれ」と書いてない限り、人が人を説得できることではない。

 最近の少年による殺人事件をみても、どうして、そんなに簡単に人をころせるのだろうか、という疑問が残るためか、必ず精神鑑定が行われる。連続幼女殺人の宮崎、神戸の小学生殺害事件、豊川市の老女殺害、バスジャック事件とどれをとっても理解に苦しむ事件だが、宮崎と神戸の事件では性的快感が裏にあったことを見逃すことができない。また、名古屋の老女殺害事件も「人を殺すことを経験してみたかった」というのは、初体験にあこがれる童貞の心境に近いものがある。今回のバスジャックにしても、強制的に精神病院に入れた親に対して、「覚えてろ、ただではおかないからな」と脅しの言葉をはいていることから、確信犯である。精神病どころか、緻密な計画性と実行力は、企業へ入社したら、優秀な資質をもった社員として、高い評価を受けること間違い無しだ。少年にしてみれば、社会的に大きな問題を起こせば起こすほど目的達成度は高かったのだ。それを精神異常として片をつけるのは簡単だが、そのほうがむしろ、17歳の少年としては善悪を別とすれば、正常なのではないのだろうか。

 私自身の少年時代を振り返ってみても、幾多の矛盾に対してなす術もなくて、当てつけに死んでやろうかと何度思ったことか。ただ死ぬのもしゃくだから、道連れに何人も殺してやろう。殺す人数は何人くらいが適当か真剣に考えたことも一度や二度ではなかった。ただ、実行しなかっただけだ。それでも、いざというときのために、戦う武器として、チェーンにちゃんとグリップをつけて、学生服の裾に仕込んで、いつでもどこでも一瞬にして引き抜いて戦えるように準備していたものだった。たしか中学二年性のころだったと記憶している。

 それで、ことがなかったから良かったものの、もし、何かことが起きていたら、「今時の子供はすぐキレル」などといわれたに違いない。当時私は殴り合いのケンカはしたことがなかったため、もし、そうなったら、力加減の仕方など知らないから、ただひたすらになぐってしまい、いかに相手に致命傷を負わすかばかり考えていたから、目の中に指をつっこむくらいのことをしたかもしれない。もしそうしたとすると、「今時の子供はケンカの仕方をしらない」といわれたに違いない。そのとおり、ケンカの仕方を知らないのである。知らないまま、大人になれたから良いものの。なにかあったら、それこそただではすまなかったはずだ。

 このように、不安定な少年時代は、多かれ少なかれ似た経験をもっていると思う。それが大したことがなくてすんだのは、ケンカの仕方を知っていたからではなくて、大事に至る前に兆候の段階でなんらかの解決をみていたからであろう。5000万円恐喝事件や、バスジャックのように最終局面まで持ち越されることが少ないのではないだろうか。このように、最終局面までいってしまうのには、それまでのあらゆる段階で、親の、学校の、警察の、病院の逃げが見て取れる。

 親は、子供と本気で身をもって対決する事を避け、学校は、いじめはあったと認めるのを拒み、警察は、家庭事情は事件にはならないといって逃げ、病院は、面倒な患者こそ迷惑と、入院を拒否あるいは、自宅へ帰す。

 もって行き場を失った少年は自暴自棄にはしる。

 一連の少年犯罪報道のなかで、一服の清涼剤といっては何だが、少し救われた気持ちになったのは、5000万円恐喝事件で、被害少年が入院していた同室のしかるべき男が気づいて、加害少年宅押し掛け、貸した金を返せ、とせまったことだろう。怖くなった加害少年の親が警察に事件にしてくれるように申し出たことが、事件が明るみに出るキッカケになったのだという。美談というより、金を返せというのも脅しに近かったようであるが、そういうかたちでしか、解決の糸口はみつからないというのが、いまの日本の状況ではないだろうか。

 暴力団の片をもつわけではないが、親も、学校も、警察も、病院も皆逃げられてしまったのでは、残るのは、その筋しかない。こどもが、いじめられていても、いじめではないとうそをつくのは、親も、学校もただ、「いじめはいけません」と注意するだけで、守ってくれない結果、さらにひどいいじめにあうことを知っているからである。それではどうしたらよいか、の質問に対し、グリコ森永事件で犯人として疑われたキツネ目の男、宮崎 学氏は、自分の子供のいじめを受けているのを知って、加害者宅に担任の教師とともに訪れて、相手の親に向かって、「お宅の息子さんがうちの子供をいじめたそうですから、わたしはあなたを殴ります」といって父親を殴りつけたそうだ。教師は「暴力はいけません」と、必死に止めたけれどもかまわず殴り、「いじめが続く限り、その都度父親のあなたを殴りにりにきますから」といって帰ってきたという。以降、いじめはなくなったそうだ。このように、親というものは、身を挺して子供を守ってやるところを見せない限り、隠してしまうことは目に見えている。にもかかわらず、警察で、少年に脅し取られたかどうか訊ねたところ、「あれは金を貸しただけ」といったから、事件にはできなかったと言い訳している。そしてその後、さらにひどいいじめにあい、けがを負い入院している。

 入院中の同室の男といい、宮崎 学氏といい、いまや正義は、暴力団にしか存在しないのだろうか。

 バスジャックの犯人も学校でいじめにあっていたという。もし、親が宮崎 学氏のような対応をとっていてくれたら、はたして、あんな事件を起こしただろうか。だれも守ってくれないことに気づいた少年の絶望感なんて、自分が悪くないのに親の機嫌が悪くて怒られた絶望感などと比較のしようがないほど、深くて、深刻でやりきれないものである。

 その絶望感も一日や二日で生まれるものではなく、少しずつ大きくなって行くものらしい。したがって、かならずそれなりの兆候があるはずで、その兆候の段階でだれも対処しないから、最後には人殺しというところまでいってしまう。人殺しも自殺も基本的には大差はない。日野小学校の殺人犯人もバスジャックの犯人も、いずれ自殺することを前提に凶行に及んでいるふしがある。神戸の少年Aも自分のことを「透明な存在」といっているように、ほとんど生命の実感が消えてしまっている。このようになってしまった少年を立ち直らせることは至難なことである。しかもそれは精神病でもないからたちが悪い。ストーカーと同じで、いくら卑劣な行為だからやめるようにいっても、そんなことは先刻承知していることである。特に、前に書いたように、17歳という自我が目覚めて間もないころは、それを受け止められるほどの蓄積がまだ備わっていないために、いくら命の尊さを教えたとしても、実感として体得することはむずかしい。命の尊さが実感できるのは自分が新しい命の親になったときとか、十分人生の蓄積を重ねて、人生の残りが少なくなったころになって初めて、生きていればこそと実感するくらいで、少年には、命の尊さを教えることより、むしろ忘れさせることこそが、結果的には命を大切にすることにつながると思う。

 たとえば、戦争中、あれほど命が危うかった時代に現在のような、自暴自棄の無意味な殺人があっただろうか。現代では、激しいスポーツの練習に疲れ果てている少年が、凶行にはしることがあるだろうか。おそらくそんな気持ちが生まれる余地が残っていないことと思う。

 このように少年には、命をもてあそぶことを忘れさせるような価値観を与えることこそが必要と思う。ところが、現代社会が少年たちに有無をいわせずに与えているのは、偏差値競争くらいしかない。その他のスポーツや趣味は個人の自由選択にまかされているために、特に能力才能がみつからないものは、希望を失い、自由をはきちがえた自暴自棄の方向へ歩み出す。そのやりきれなさから逃げるかのように、いじめや暴力、うまくいってもゲームやインターネットでの仮想現実にしか血路を見いだせなくなる。この段階で、受験や就職で理不尽な社会に翻弄されていれば、しばらくは自我の暴走をくいとめることはできるが、それらの価値観を放棄してしまえば、それこそ残っているのは、オウムか殺人という、行きつくところまで行ってしまう。

 さらに悪いことには、凶悪な犯罪を起こしても決して罰せられることなく、むしろ施設で完全に保護されることが保証されているという現実である。保護がなければ、殺された子供の親の復讐で必ずや殺されてしまうだろう。少なくとも私の子供がいじめ殺人にあったならば、そうするだろう。たとえ残りの人生が刑務所暮らしの一生となったとしてもそうすることはまちがいない。

 このように考えるのは特別私が凶暴であるからでなく、至極当たり前な感情であると思う。それなのに現行の少年法は加害者の保護ばかりを優先している。法律さえ子供を守ってはくれていないのである。子供をいじめ殺したら、その親に殴り殺されると思っているくらいでちょうどよいのではあるまいか。それを禁止するのであれば、、学校なり、警察なりが機能して取り締まるようでなければならない。

 ところが、栃木のいじめ殺人にあった子供の親は、何度警察にお願いしても取り合ってもらえなかったという。それは栃木警察が怠慢なのではなく、警察というものは、事件が起きてから捜査するものとしているからである。したがって、警察から見放された時点で親は、自分で守るか復讐に出るかの行動を起こすべきであったのだ。そうしなかったのはおそらく仕事が忙しくてなかなかそんなことをしてもいられなかったとか、いいわけをするだろうが、そういうところが子供の絶望を生み出す最大の要因と考える。仕事をなげうって子供を守る覚悟のある親は、それ以外の喜怒哀楽全般を子供とともに共有することもできるだろうし、そのような親子関係があれば、親を悲しませるようなことはできない、と自分を抑制することもできる。一般の親子関係はだいたいこんなものではないだろうか。

 家庭内暴力にしても、本気で子供を守る気持ちがあるならば、殴りつけてでも戦う必要がある。家庭内暴力が、最初は些細なことが次第にエスカレートするのは、子供が、親に挑戦しているのだ。これでもか、これでもかとエスカレートしても、優しくされてしまったら、行き着くところまで行ってしまうしかない。

 10年ほど前の埼玉の東大卒の教師夫妻が立教大学生の子供を殺してしまう事件で、親が子供の家庭内暴力に耐えかねて、殺すしかないと、寝ている子供に包丁を突き刺したときに、子供は、「お父さん、僕が悪かった、だから殺さないで」と叫んだそうである。それに対して、父は「もう手遅れなんだ、早く死んでくれ」といってメッタ刺しにしたそうだ。なぜもっとはやく子供を殴りつけてやれなかったのだろう。しかも、一刺ししたときに、やめていても間に合ったのではないだろうか。このような事例に触れるたびに、父親のはき違えた優しさにはがゆくてならない。

 だいたい、世の父親はあまりに子供の教育を母親に任せすぎていないだろうか。バスジャックの犯人のケースでも、母親が必死だったことは報道されているが、父親は単にドライブにつれていっていただけという感じしか伝えられていない。 あまりに母親に任せすぎていないだろうか。任せすぎていたとしても、いざというときは自分の命を懸けてでも子供と対決しようとしないだろうか。それができるのは、暴力団しかないということはなんということか。